■9月27日、日曜日、曇り、午後、秋雨。 終日、仕事。 3つ重なって、なかなか、険しい日々に。 9月の諸問題を解決して、気分良く、10月へ移りたい。 友人の作家、 黄英治 さんに紹介いただいた本が2冊到着。 宮沢剛著 『他者の声を聴く』 と、目取真俊著 『地を這う声のために』 。 この頃、 植民地他者の聲を聴くこと が、 社会操作の呪縛を解く上で有効な手段 になると、はっきり気づいた。 今までも、うすうすはわかっていたのだが、自分で一般社会操作論を考えるようになって、その確信は、より強くなった。 社会操作は、個人には社会化されており、社会には制度化されることで実装化されている。 一番やっかいなのは、それが、 情動と強い結びつきがある 、ということである。 我々は普通に生きているだけで、セイレーンの聲に絡めとられているのである。 社会操作は、それなしでは、社会、あるいは国家は成立しない、という意味で、現存の社会や現存の国家の再生産に必須の条件となっている。 この意味で、社会操作を問題にするということは、現存とは異なる、 よりよい社会 を問題にするということであり、それは、とりもなおさず、 民衆の歴史への参画を問題にする ということなのである。 最近、グラムシを読んでいて、こんな風に考えるようになった。 田畑さんは、グラムシの研究者は、ルカーチほどではないが、激減していると述べている。 私は、これを聴いて、グラムシの重要性を確信した。 学会のポスト市場で人気のない人ほど、重要だからである。 宮沢さんは、『他者の聲を聴く』の「はじめに」でこう書いている。 「戦後の日本政府は、独立(1952)と同時に、旧植民地出身者から国籍を剥奪し、日本国民=日本民族=日本人という同質性を強調した国民像を構築した。 いわば<同>の範囲を一気に収縮させたのだが、これは、旧植民地出身者の 不可視化あるいは例外化 をもたらし、”日本国民は日本人だけ(日本民族)だけ”という同質な国民像と、”この社会に暮らしているのは日本人だけ”という均質な社会像を、この国に暮らす人々の多くに内面化させる契機となった。 その結果、社会生活の隅々まで日本人であることが当然視される状況が生じ、在日朝鮮人にとっては同化(日本人化)の圧力となっただろう」(同書、p.5)。 近代のnation-state(民族国...