京都日誌(458)
■9月13日、日曜日、積雲ある青空。
写真は、大阪市西区西長堀のロイヤルホストの廊下にできた影と光。
午前中、J.J. Rousseauの『言語起源論』を原文で読む会。
午後、大阪西区民センターで『部落差別と天皇制──旧・洞村(ほうらむら)の強制移転の歴史から学ぶ』(主催:21世紀を考える会)に参加。
たいへん、面白く、また、勉強になった。
2026年は、洞村(ほうらむら)の強制移転から、100年になる。
これは、神武天皇陵と、「古事記」と「日本書紀」をベースに、1889年(明治22年)に、明治政府が神武天皇陵として治定した後──もともと、神武は実在せず、このため、天皇陵の治定には、この畝山中腹以外に、6ヶ所も候補地があった──、1898年に拡張整備が始まった。
この神武天皇陵整備とセットで、橿原神宮を創建し(1890年)神武を祀った。要するに、日本国家の起源をここに捏造したということになる。
この橿原神宮は、日清戦争(1894)後、戦利品の下付を政府に願い出た記録がある。このため、境内に戦利品などが置かれ、後世に「戦勝記念神社」として日清戦争と結び付けられてゆく。
このとき、洞村(ほうらむら)は、神武天皇陵を見下ろす位置にあり、1915年に、奈良県が示した移転理由書の中に、「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼に堪えざること」とある。
要するに、明治国家に、強制移転させられたのである。
洞村(ほうらむら)は、被差別部落だった。被差別部落で、差別は受けていたが、経済的に困窮していた、ということではなかったようである。
畝山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞村は、全戸208戸、計1058人が退去した。その過程で、生後1年以内の乳幼児8人を含む13人が亡くなっている。
橿原神宮は、1890年(明治23年)畝山の東南に創建されたが、1912年(大正元年)には、神域が拡張され、さらに、1940年(昭和15年)紀元2600年記念祝典の祭にも、神武陵とともにに、現在の大きさに拡張された。
神武陵など複数の天皇陵の特定は、1889年(明治22年)の大日本国憲法の制定の年に、伊藤博文を中心として、一気に進んだ。
万世一系の国家という虚構を作っていくためには、天皇陵の治定が必須で、このふたつは、同時進行している。
他方、靖国神社 の前身の東京招魂社の創建 は、1869年(明治2年)であり(戊辰戦争で明治新政府軍側に立って戦死した者3588柱)、1879年(明治12年)には、「靖国神社」と改称し、別格官幣社に列格されている。
死者が「英霊」になるのは、日露戦争(1904年~1905年)の死者から。
靖国神社の前身である東京招魂社の創建から橿原神宮創建までは約21年もあり、「靖国神社」への改称・別格官幣社列格から橿原神宮創建までは、約11年ある。
靖国神社が「国家のために死ぬこと」を祭祀化し、橿原神宮が「天皇国家の起源」を祭祀化した。
設置時期には11~21年の差があるが、明治国家の形成という歴史過程では、相互に補完する国家祭祀施設だったと言える。
神武天皇陵と橿原神宮で、近代の民族国家の起源を可視化することで社会操作し、靖国神社で、国民の死を神格化することで社会操作してきたと言える。
始まりと終わりをちょうど合わせるように、この2つの宗教施設は機能しているので、靖国の分析には、神武天皇陵と橿原神宮をセットで考えるべきだと、きょうは、思った。
10月には、現地のフィールド・ワークがある。