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森澄雄の俳句6

さくらの夜童女ひとりで湯をつかふ(山姥 昭和44年) ・この句を一読したとき、広い湯殿で童女がひとり湯を使う音が聞こえてきた。 ・繰り返し、読んでいると、怖くなってくる。この童女は何者なのだろう? ・身体は童女だが、精神は老女のような、そんな童女がこちらを向いて笑う。この童女は、櫻と共鳴しているように思える。 ・さくらの花も花自体は、櫻の時期には記憶がまだ残る梅の花と比較すると、若々しくかわいい感じがする。しかし、樹は古木であったりする。 ・しかも、この句は、「さくらの夜」なのである。つまり、花が咲いているのは、夜であり、同時に、複数のさくらの木の花であることを示している。 ・森閑とした湯殿で、さくらの化身である童女が湯を使う。その湯の音も、その童女も、その一瞬だけのものであり、その後は、ふたたび、さくらの夜に戻る。

森澄雄の俳句 5

山のプールをひとり歩きの秋の猫(1968年)   『踊子』(昭和43年) ・面白い句である。リズムは7・7・5と崩れて間延びしている。 ・まず、驚くのが、猫に季感を感じ取っていること。「秋の猫」という措辞は、私は、あまり見たことがない。そもそも、猫は、春との結びつきが季語では強い。 ・しかし、「秋の猫」は、発情期の春の猫と比べて、むしろ、猫の本質的な特徴である、孤独や自由や孤高をよく表現している。 ・「山のプール」というのも、たいへんめずらしい詠み方だろう。山にある学校かホテルのプールか。時期を考えると、学校のような気がする。 ・「山のプールをひとり歩きの」は、そのプールサイドを悠然と猫が横切っていくところだろう。 ・猫の歩調が、7・7・5のリズムと呼応している。 ・「秋の猫」は使ってみたいものである。

森澄雄の俳句 4

鶏頭をたえずひかりの通り過ぐ   『踊子』(昭和43年) ここで詠まれた鶏頭が、子規の繊細な鶏頭なのか、燃えるようにグロテスクで力強い赤の鶏頭なのかで、句の印象は異なるが、一読したとき、後者の鶏頭が浮かんだ。 子規の鶏頭なら、ひかりは降り注ぐのがふさわしいが、あのダイナミックな鶏頭には、ひかりは、通り過ぎるのがふさわしい。 ひかりが通り過ぎるたびに、あの赤にひかりがあたり、次の瞬間には、赤はすこし翳る。 このひかりの元は、太陽であろうから、雲の動きがひかりの動きを生じさせているはずである。なので、ひかりは上から降り注いでいると考えるのが自然だろう。 では、なぜ、「たえずひかりの通り過ぐ」のか? 恐らく、この鶏頭は群生している。群生した鶏頭に、次々に、光と翳が生じている。ひかりが横に移動しているかのように。 この句は、「ひかりの降り注ぐ」とはしなかったことで、鶏頭のはるか上方にある秋の雲の絶え間ない速い動きが見えてくる。

森澄雄の俳句 3

桑は樹に老いばらばらと山の雨       『踊子』(昭和43年) この句の助詞の使い方は普通とは違う。通常なら、「桑の樹は老いばらばらと山の雨」ではないだろうか。 「桑は樹に老い」とは一体何か? 謎であるが、助詞「に」は、この場合、ふたつの可能性がある。桑と対面して樹を対置している「に」。この場合は、桑と樹は別存在だ。もうひとつは、桑が老いて樹に生成したという変化の「に」である。この場合、桑はひとつの存在の樹への変化となる。 「暗号解読」として、面白いのは、断然、後者である。 「山の雨」が出てくるため、この桑は、桑畑の桑とは考えにくい。たいてい、桑畑は平野部にある。山間部にあってもおかしくないが、この桑のUmwelt=環世界は、あくまで、山なのである。 つまり、養蚕業としての人間の労働の対象である桑畑の桑ではなく、山間部に自生した一本の野桑なのである。 この野桑が老いて樹になった。 これは、人間が桑であると他の植物から区別するその特徴が、老いて意味をなさなくなった。つまり、人間対桑の、その関係性が消滅した。そして桑は樹になったのである。 そして、純粋自然界へ戻った。そこには、桑にとってのUmwelt=環世界しかなく、人間は、桑を見ているが、人間には、その世界はわからない。 そのとき、山の雨がばらばら音をたてて降ってきたのである。 この風景は、前-人間世界、あるいは後-人間世界なのである。 この句は、そうした自然的存在の深い時間を感じさせるのである。

森澄雄の俳句 2

梨食うて顔吹き分くる秋の風   『踊子』(昭和43年) ラフランスを始めて食べたときの衝撃は忘れがたい。これが梨なのか? 林檎にかなり近い。というよりも、ラフランスによって、梨と林檎のカテゴリーが、私の中で混乱した瞬間だった。 梨と林檎は截然と分かれている。澄雄の掲句の梨は、この梨である。梨には、秋の風が合う。林檎には、天高き秋の空が合う。このふたつの果物は出自が違う。 この句は、秋の風ごと梨を食うている。秋の風は、梨の、舌に残らない甘さとなり、それは林檎の甘酸っぱさとは違う余韻を生んでいる。 そして、この句は、季重ねになっている。季重ねの場合、2つの季語が、その効果を相殺するか、どちらかが、季語の役目を果たし、他方が普通の言葉として働くか。 この句は、梨も秋の風も、言葉が動かない。ふたつとも、季語として働いているように思える。それでいて、相殺していない。むしろ相乗している。そんな感想を持った。

森澄雄の俳句 1

いわし雲城の石垣猫下り来  山姥(昭和44年) ・高松と場所が明記されている。この石垣は、高松城だろう。天守閣は残っていない。現在は玉藻公園となっている。 ・高松市では、天守の復元(木造復元)計画が進められており、資料調査や設計検討が続いているらしい。高松市は、市民をまとめるシンボルとして、また、重要な観光資源として、高松城を考えているのだろう。 ・失われた城の石垣を猫が一匹降りてくる。この景は、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」に通じるものがある。 ・この猫は、どこから来たのか。実は、高松城は、水城であり、城の堀には瀬戸内海の海の水を引いている。城自体の石垣は、海水の上にある。 ・猫が降りて来て着地する土はない。城の塀の部分の石垣は土の上にあるので、恐らく、猫は塀の石垣を降りてきたのだろう。 ・だが、「城の石垣猫下り来」の措辞は、かなりの高さの石垣を想像させ、猫が高いところから石垣を降りてくるダイナミックで素早い動きが目にうかぶ。 ・句としては、それが趣旨だろう。大きな城と小さな猫の対比。動かない城と素早く駈け下りる猫の動きの対比。 ・鑑賞としても、その方が面白い。だが、最初に述べたように、猫はどこから来たのか? それは、私には、「いわし雲」からのように思えてならない。 ・天上の猫が地上の失われた天守閣の石垣を降りてきたのである。