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京都日誌(479)

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  ■10月11日、日曜日、快晴。 きょうは、朝から、近鉄で畝傍御陵へ向かう。奈良散歩。 駅に降りて、まず確認したのは、畝山(洞村)、橿原神宮、畝傍御陵=神武天皇陵の空間配置だった。 駅にごく近いところに、日本の大和朝廷関連の考古学的知識の生産拠点である橿原考古学研究所と、その付属博物館が位置することも判った。 これらは、ここが、「建国の聖地」であることを、その空間配置によって意味するように演出されている。 特に、日本の考古学的知識の生産拠点を、ここに据えたことは、「建国の聖地」にリアリティーを与えることに成功している。 これらは、記紀に出てくる畝山や橿原神宮、神武御陵の空間配置を用いて、建国の時空間をここに確定するという、大掛かりな社会操作と言える。 社会操作は、その規模が大きいほど操作効果は大きくなる。 今回、大久保町の「まちづくり記念館」の資料から、新しく判った知見の一つは、神武陵の確定は、1657年に着手した水戸光圀の『大日本史』編纂の頃から、繰り返し論争が起きていたということだった。 実在しない神話の人物の墓陵を確定する論争が、1863年まで200年以上続いていたのである! これらの論争においては、その神武墓陵の候補地が6ヶ所にも及んだ。 この論争の経緯によって、1698年から166年間も、現在の第2代の綏靖天皇陵(これも実在性については議論がある)が、神武天皇陵とされていたのである。 この論争に関与したのは、錚々たる人物達で、本居宣長や蒲生君平、貝原益軒、徳川斉昭らがいた。 これらの論争と、その確定結果に影響を持ったのは、幕府の衰退とペリー来航による攘夷論の沸騰だった。 幕府は、公武合体政策で生き残りを賭けるために、宇都宮藩からの修陵の建白に乗り、1863年に、神武陵が新しく神武田の地に創られることになった。 これが、神武天皇陵の原型となる。 この神武天皇陵が、橿原神宮の拡張と軌を一にして、拡張されていく。 最初の拡張は、日清戦争と日露戦争の間に行われる。 それは、日清戦争の戦勝記念の拡張工事だった。 対外的な膨張と、この神武陵・橿原神宮の拡張工事は対応する形で進む。 (気が向いたら、続く) ★ 夜、奈良から帰宅すると、即、洗濯、コインランドリーで乾燥。

京都日誌(458)

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  ■9月13日、日曜日、積雲ある青空。 写真は、大阪市西区西長堀のロイヤルホストの廊下にできた影と光。 午前中、J.J. Rousseauの『言語起源論』を原文で読む会。 午後、大阪西区民センターで『部落差別と天皇制──旧・洞村(ほうらむら)の強制移転の歴史から学ぶ』(主催:21世紀を考える会)に参加。 たいへん、面白く、また、勉強になった。 2026年は、洞村(ほうらむら)の強制移転から、100年になる。 これは、神武天皇陵と、「古事記」と「日本書紀」をベースに、1889年(明治22年)に、明治政府が神武天皇陵として治定した後──もともと、神武は実在せず、このため、天皇陵の治定には、この畝山中腹以外に、6ヶ所も候補地があった──、1898年に拡張整備が始まった。 この神武天皇陵整備とセットで、橿原神宮を創建し(1890年)神武を祀った。要するに、日本国家の起源をここに捏造したということになる。 この橿原神宮は、日清戦争(1894)後、戦利品の下付を政府に願い出た 記録 がある。このため、境内に戦利品などが置かれ、後世に「戦勝記念神社」として日清戦争と結び付けられてゆく。 このとき、洞村(ほうらむら)は、神武天皇陵を見下ろす位置にあり、1915年に、奈良県が示した移転理由書の中に、「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼に堪えざること」とある。 要するに、明治国家の洞村を見下した差別意識で、強制移転させられたのである。 洞村は、被差別部落だった。被差別部落で、差別は受けていたが、経済的に困窮していた、ということではなかったようである。 畝山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞村は、全戸208戸、計1058人が退去した。その過程で、生後1年以内の乳幼児8人を含む13人が亡くなっている。 橿原神宮は、1890年(明治23年)畝山の東南に創建されたが、1912年(大正元年)には、神域が拡張され、さらに、1940年(昭和15年)紀元2600年記念祝典の祭にも、神武陵とともにに、現在の大きさに拡張された。 神武陵など複数の天皇陵の特定は、1889年(明治22年)の大日本国憲法の制定の年に、伊藤博文を中心として、一気に進んだ。 万世一系の天皇家が支配する国家という虚構を作っていくためには、天皇陵の治定が必須で、このふたつは、同時進行している。 他方、 靖国神...