京都日誌(470)
■10月3日、土曜日、巻雲ある晴れ。
身心調整、洗濯、コインランドリー、食事。
食事したら、体全体が重くなり、だるくなって、なにもできなくなる。
1時間ほど休むと、もとに戻った。
朝のプチ断食後の食事は、こうなることがある。
その後、運動へ。
夜、NHK「未解決事件 File.19 『北関東連続幼女誘拐・殺人事件』」を視聴。
多くの人が、この番組を、──かつて、ウクライナのネオナチの件で、平然と情報操作を番組中で行い、NATOの戦争戦略へと方向づけた、信奉者の多い、某著名ジャーナリスト(私は、この人をほとんど信用していない。国内問題だけ見ていると、そうは見えないが、典型的な国家利権村ジャーナリストの1人である)も含めて──「衝撃的」と評している。
それは、違うだろう。
検察・警察による組織的な、17年間の冤罪自由強奪(足利事件)と冤罪殺人(飯塚事件)が行われた、ということであり、怒るところだろう。
検察・警察は、既存メディアと並んで、代表的な国家利権村の守護神であり、彼らが守っているのは、国民の権利ではなく、国家利権村の利権である。
それがよく見えた番組だった。NHKは、報道部は、社会操作の中核だが、ドキュメンタリー部門はよくやっている。
私が今取り組んでいるドイツの知識社会学者、ニコ・シュテールは、今年5月の行われたインタビューで、知識について、こう述べている。
「私の考える知識は、個人が精神の中に所有するものではありません。誰かが引き出しの中の道具のように『持っている』私的な認知資源ではないのです。知識が生じ、安定し、効果を発揮するのは、常に社会的実践、制度的構造、共有された解釈の枠組みの中においてのみです。
『集合的な状態』とは、誰もが同じことを知っているという意味ではなく、知識が専門職の共同体、学問分野、組織、文化的伝統といった社会的な担い手の構造に、その成り立ちから依存しているという意味です。
知識を文脈から切り離して移転できる単位として扱う、経済学や情報科学の情報概念に対して、私は、知識はファイルのように単純に『移転』できるものではないと強調します。
知識は、(※情報とは異なり)新たな文脈に位置づけ直されなければならず、その位置づけ直しは、常に社会的に媒介されます。
私が批判的に取り組んでいるハイエクの分散した知識の概念に対しては、知識は分散しているだけでなく、構造の中に埋め込まれていると強調します」。
警察の科学捜査研究所のDNA鑑定で得られた知識というのは、国家利権村である検察・警察という社会構造の中に埋め込まれている、ということなのである。
その知識が真実を反映しないことは、知識が、真理として独立しているのではなく技官などの専門職を含む、警察の組織構造に初めから終わりまで依存しているからである。
冤罪は、我々のすぐ隣に口を開けて存在している。