京都日誌(480)

 






■10月12日、月曜日、快晴。

終日、仕事。

若宮へ本と資料の宅配便を出す。

若宮では、主に、11月の公開講座で行う科学基礎論『目的論・因果論・偶然論──観測者問題について』の骨格をまとめたい。ヴィトゲンシュタインにヒントを得た、新しい基礎概念である社会的実践ゲーム(Soziales Praxisspiel)を、土台に組み立ててみる。上手くいくかどうか、わからない。

岐阜大学大学院の下畑先生の『一生パフォーマンスする脳』が届いたので、ひとわたり読んだ。

この本は、認知症予防のための最新情報・対策が、やさしくコンパクトに書いてある。

いろいろ参考になったが、有酸素運動は、週に150分というのは、なかなか、困った。

1回30分でも週5日は、なかなか、きびしい。

普段の生活に取り込むのがベターなんだろう。

★

「おおくぼまちづくり館」の資料によると、洞村の全村移転の話が、そもそも、出てきたのは、1912年に明治天皇が亡くなって、1914年(大正14)に、新天皇の即位の礼が行われることになった。

さらに、1915年に、新天皇の「神武陵行幸」が予定されると、洞村を全村移転せよ、という意見が出始める。

この意見の一部を、これから、2つ紹介するが、それは恐るべく歪んだものであり、支配層の分断統治の幇間の極致とも言え、気分が悪くなるが、これがリアルなのである。

後藤秀穂著『皇陵史稿』(1913年)

「(前略)驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。

知るや、知らずや、政府も人民も、平気な顔で澄ましている。

事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。

しかも、それが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山に爛れ、腐れ、そして、千万世(ちよろず)に白骨を残すのである。

どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して、神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りては言語道断なり。

聖跡図志には、この穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして今やほとんど倍数に達す。

こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸、おいおい霊山の全部を侵食する」。

この本は、今から、113年前に出たものである。

「新平民」とは、明治政府が1871年(明治4年)のいわゆる「解放令」によって、江戸時代の「穢多」「非人」などの身分呼称を廃止した後、その対象となった人々を指して使われた呼称。「新平民」として、平民と区別しているところから分かるように、身分差別は続いた。

こうした部落民に対する強烈な差別は、そのまま、帝国主義国家における階級制度の維持に用いられ、軍隊内の兵士に対する非人間的な差別や植民地における「皇民」差別を生み出し、戦後民主主義社会における差別の原型になっていく。

差別と天皇制と暴力・戦争は常に三位一体であり、それらは、重要な統治技術であると同時に、国内外に植民地を形成する契機を持つ。

そして、この植民地は、自己の外に客観的に存在するだけでなく、差別する側もされる側も、社会化され、内側にも存在する点が、さらに重要である。