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京都日誌(456)

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  ■9月9日、重陽、秋雨のち曇り。 身心調整、掃除。 その後、六本木の仕事へ入る。 臨時稼働だったが、意外に時間を要した。 エルブリッジ・コルビー 国防次官の戦略軍のシンポジウムでの、戦術核使用のハードルを下げる危険な 講演 資料を検討。 ゲーム理論を核抑止、軍備管理、交渉、紛争などの研究に応用した トーマス・シェリング (1921-2016)を知る。 ゲーム理論は、 写像理論に象徴されるスタティックで受動的な存在論を再帰的でダイナミックなPraxisspielへと組み替えたとき 、検討しなくてはならないものの一つになる予感がある。 ここで言う、 Praxisspiel(実践ゲーム)論 とは、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を 存在論的に止揚 したものである。 その中心をなすのは、人間が目的を定立し、環世界の因果的諸連関を認識・選択して、それを目的実現へ向けて組み替える 労働行為を原型とする社会的実践 である。これを ひとつのゲームとして見てみよう という発想である。 実践ゲームの規則は、言語的規約だけから生じるのではなく、人間の身体的・知覚的能力、環世界の客観的諸条件、ならびに歴史的・社会的関係との相互作用のなかで成立し変容する。 人間は、目的定立をともなう社会的実践(労働を含む)を通じて、環世界を変容させ、同時に、自らの能力・欲求・社会関係をも変容させ、その循環のなかで自己と社会を実践的に形成していく。 そういうイメージを、 Praxisspiel(実践ゲーム) に込めている。 夕方に仕事を終えて、運動へ往く。帰りに買い物。 帰宅後少し休んで、今度は、インターバル・ウォーキング+ジョギングへ、堀川まで。 かなり気分が良かった。夜は、だいぶ涼しくなった。 大垣書店で『九条の大罪』第11巻を購う。楽しみである。 夜、高橋和夫先生が、イスラム関連の考証を行ったアニメ、天幕のジャードゥーガル 第一話 を視聴。 かなり面白い。物語は、1213年のイラン東部の都市トゥースから始まる。 その後、ニコの仕事を少し行う。

京都日誌(455)

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  ■9月8日、火曜日、曇り、秋雨。 雨に降り込められて、気分が上がらない一日だった。 午前中、身心調整、『週刊現代』を読む。かなり面白い。 週刊誌を比較的読むようになったのは、ここ5、6年くらい。 六本木の仕事をするようになって、週刊誌の報じる内容の重要性に気が付いてから。 午後から、書評論文『シオニズムの現在形、あるいは社会操作としてのシオニズム』の執筆。 凡そ、2分の1を書き上げた。 ここで、もっとも重要なことは、 一極覇権から多極化へ という、世界構造の変化という 「地」 と、シオニズムの変化(あるいは可視化)という 「図」 の関係であると思っている。 まだ、この関係は、よく見えてこない。 夜、8時を回ると、眠くなり、ベッドでヴィトゲンシュタインを検討する。 めったに飲まない珈琲を飲むと、やおらスイッチが入った。 後期ヴィトゲンシュタインでは、 言語ゲーム論 と 家族的類似性 という革新的なアイディアが中心となり、言葉の向こうの事態や事物を前提にして、それを言語は模型化する、という 写像理論(存在論) は、言葉の使い方の一つにすぎないと自己批判されて、うち廃られていく。 後期の思想は、存在論や、それと関連する本質主義──物事にはそれを成り立たせている不変の本質がある──への根本的な批判となっている。 ここを、どう考えるかが、鍵になる。 言語ゲームは、たんに多種多様にあるというのではなく、ある場面や社会活動、構造の中で、その選択の範囲は、決まってくる。 ヴィトゲンシュタインは、 生活形式(生活の様式、生活の形) という概念で、その規定性を捉えている。 生活形式は、 文化 と言い換えてもいい。 これは、 目的定立を伴う社会的実践が行われる、地であり場であり空間 でもあるだろう。 前期ヴィトゲンシュタインの言語論に於ける写像理論は、スタティックで受動的ではあるものの、 存在を前提に している。言語の意味は、この存在が与えた。 逆に、後期の言語ゲーム論は、存在論、あるいは反映論からは離れているように見える。 言語ゲーム論では、言語の意味は、 「その言語がそのときその場でどう使用されるか」 という使い方で決まるとされる。 ここで、気が付くのは、ヴィトゲンシュタインの問題関心が、 言語とその意味 だということであり、存在論も論という名が付くことからわかるように、...

一日一句(5921)

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  追ふ男追はるる男銀河かな

一日一句(5920)

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  独りゐて秋聲となるこの身かな

京都日誌(454)

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  ■9月7日、月曜日、曇り。きょうは、涼しかった。 便利堂書店で、私の愛読書『週刊現代』を買ったときに、「きょうは涼しいね」と話しかけると、店番のおばちゃんも、「まあまあ(涼しい)ね」と言っていた。 おばちゃんには、まあまあらしい。 朝、あわただしく6冊の冊子から、必要ヶ所をコピーして、札幌へ送る。 身心調整、掃除、即、仕事に入る。 9時間半、険しい労働をして、ルイボスティーを飲む。 ★ ウトロ平和祈念館 から、 『長生炭鉱』 図録が送られてきた。 この炭鉱の存在は、まったく知らなかった。 これは、山口県宇部市にあった海底炭鉱。1942年2月3日、水没事故によって183名が命を落とした。そのうち136名は、朝鮮半島から動員され、働かされていた。 長生炭鉱は、概ね1914年(大正3年)から1942年(昭和17年)まで稼働していた。ただし、途中に、水没事故による約10年間の休業期間がある(1922-1932)。 つまり、183人が亡くなる20年前にも、大きな水没事故があったのである。 長生炭鉱の労働者の75%が朝鮮人だった。当時、山口県の炭鉱全体における朝鮮人労働者の割合は、9.3%だった。 長生炭鉱は、桁違いに朝鮮人が多かった。 それは、1922年に大きな水没事故が起きたように、水没事故の可能性が、他の炭鉱よりも高く、そのことを、知っていた地元の日本人労働者を集められなかったからだろう。 朝鮮人労働者は、強制連行で日本へ連れてこられるか、甘言で騙されて連れてこられた。 このとき、水没事故のリスクは、まったく触れられず、「しっかり働けば、郷里に家が建つし、広い田も買える」といった言葉が、釜山などでは、言われていたという。 当時、長生炭鉱の寮に閉じ込められたひとの証言では、「ひとの背の二倍くらいの高さの高い板で周囲は囲まれており、よじ登れないようになっていた。寮から逃げて運悪く捕らえられると、素っ裸にされて、木刀ではなく革の帯で命が亡くなるほどリンチされた」という。 この事故が起きた1942年2月3日は、「大出し」と呼ばれる増産日だった。 事故の直接の原因は、拂堀り(はらいぼり)という非常に危険な採掘手法だった。 これは、天井を支えるために残すべき炭柱まで削り取る強引な手法で、これによって、要請された石炭量を供出していたのである。 粘結性のある石炭を乾留してコー...

京都日誌(453)

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  ■9月6日、日曜日、曇り、夜、秋雨。 東京、埼玉県、神奈川県、千葉県に、線状降水帯半日前予測が出ている。 午前中、洗濯、コインランドリー、掃除、身心調整。 午後からニコの仕事を深夜まで。 訳注に凝るたちなので、進みが悪かった。 日本で、今や唯一となった、ルカーチ研究者の秋元由裕さん(北星学園大)とつながり、ルカーチの翻訳連載を送ることに。 次々に、ルカーチ研究者が亡くなって、引き継ぐ人がいない。世代交代にならない。 私のような、在野の研究者でも、貴重がられるほどである。 海外も同じような状況で、フランスでは、ルカーチの晩年の大著『社会的存在の存在論』の仏語版作成を、定年退職した在野の研究者が行っている。 監修は、プロの哲学者。 秋から、できれば、御所周りで、インターバル・ウォーキング+ジョギングを再開すべく、安価なランニング・ポーチを購入。