■10月25日、日曜日、曇り。 朝、家の体組成計で4ヶ月ぶりに測定。 データは、AIに記憶させた。 6月のデータと比較して、「良好」と言ってきた。 家庭用の体組成計なので、正確さはそれほどではないと思うが、心身・身心調整の方向性は、凡そこれでいいことが判る。 体内年齢は、前回と同じで、50歳だった。 午後、京都へ戻る。 東京も京都も雨は降っていゐなかった。 今回は、宅配便で本と衣類を送ったが、あとから荷物が増えて、4つも持って帰ったので、一定庵にたどり着くと、ぐったり疲れてしまった。 帰宅後、郵便物等の整理。 少し休んで、千本通りを南下。 すきやで牛皿・焼鯖定食を食べて──やけに牛肉の量が減ったが、気のせいか?──中央図書館へ2冊返却し、そのまま、堀川まで歩いて、大垣書店で『九条の大罪』14巻を購い、中立売通を今度は西進して、千本へ戻って、イズミヤで買い物して帰宅。 夜の散歩となった。 40年前の学生のときも、こうして夜──特に真冬の、今より遥かに寒かった京都の夜──よく出歩いていたことをふと思い出した。 歩きながら、田畑さんから届いた、AI革命関連の原稿執筆依頼の手紙を思い出し、AI革命や科学技術に関して、 明晰に対自化されていない文脈を、対自化することで、原理的なAI革命批判ができるかもしれない と思いついた。 それは、 ユダヤ ─ キリスト教の唯一神文明 という文脈である。 マルクスにしても、ルカーチにしても、ヘーゲルなどはあからさまにそうだが、キリスト教文明の文脈を前提に思索している。 それにアンチを唱えるにしても、それに唱和するにしても。 それが、その前提の文脈とセットで、日本へ輸入されることはなく、 社会科学あるいは自然科学として、唯一神文明の文脈の方は隠されてしまう、あるいは、議論の対象から疎外されてしまう 。 それがなくても、たとえば、労働論やイデオロギー論などとして、十分に完結した理論として、理解が可能であり──その理解においても、重要な論点は複数、存在している。 こうした労働論やイデオロギー論の現実形態は、良くも悪くも、近代社会や近代国家の編成原理に、制度や知識、教育などを通じて、深い影響を与えている。 科学は、目的定立を伴う労働実践において、目的達成手段の選択肢として発展してきたという原理的な説明が可能であり、それは、普遍的な説得力...