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一日一句(5912)

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  夏風邪やのどの奥より青き汽車

一日一句(5911)

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虫の聲昼夜さだまる奥武蔵

京都日誌(448)

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  ■8月30日、日曜日、曇り。 朝から、洗濯、掃除、コインランドリー、身心調整。午後昼寝。 夜、堀川までインターバル・ウォーキング。 最初は、蒸し暑かったが、風が吹いて、気持ちよかった。帰りに買い物して帰る。 きのうの、細見さんの話から、大学のガバナンスは、民主主義の手続きではなく、企業経営の論理に従っていることが、はっきりしてきた。 学生の質も変化しており、リーダーに選出された人が一生懸命やっているのに、野党などは、その足を引っ張っていると認識するらしい。 小中学校の学級委員長に協力するときのような受け止めだという。 この社会においては、民主主義は、資本主義の枠内で機能するしかないので、民主主義は、必然的に、腐敗する。だから、たえざる民主主義の民主化が必要なのだが、現実の社会は、民主主義的独裁化の方へ進んでいる。その方が、市場での生き残りに有利だからだ。 京都大学の総長選挙のあり方は、ガバナンスにおける、企業経営的な独裁化の流れの中にあるとも言える。 こうしたときに、長いものに巻かれるか、長いものに抵抗するか、は、今後、大学ガバナンスの問題に限らず、切実な問題になってくるだろうと思う。 妻から、生野菜に蒸大豆をトッピングしたものを食べるように言われているので、レトルトのジャワカレーと、味噌汁と、このサラダを作って食べた。 夜、遅れているニコの仕事を行う。

京都日誌(447)

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  ■8月24日、土曜日、曇り。 午前中、身心調整。 その後、京都大学大学院の細見和之教授の 講演会 へ。 きょうの講演は、「近代と過剰なるもの」というテーマで、フランクフルト学派の第一世代、特に、アドルノとホルクハイマーの哲学の展開において重要で、一見、異質な三人──マルクス(剰余価値論)、ニーチェ(力への意志)、フロイト(リビード)の理論に、近代における過剰なるものを見て、フランクフルト学派から、今、何を学べるか?という問題意識に貫かれたものだった。 細見教授が強調していたことの一つは、マルクス(唯物史観に基づいてブルジョア思想を徹底批判)とフロイト(人間の夢や無意識を探求したブルジョア的な思想家)という、当時においては、水と油のように、異質な思想家と見られていた二人を、フランクフルト学派が、統合した点であった。 強権的な支配者に大衆が嬉々として従う問題の解明には、家庭におけるイデオロギー形成メカニズムを解明する必要があり、そのためには、フロイトの精神分析が必須だった、という。 ニーチェのフランクフルト学派への統合に於いても、ニーチェは、社会主義思想を弱者のルサンチマンに基づく「奴隷道徳」と批判し、人間の個性や卓越性が奪われた画一化された社会への批判──これらは、アドルノとホルクハイマーが亡命していた合衆国にもあてはまると考えた。 私が特に、面白かったのは、このマルクス・フロイト・ニーチェの 近代の過剰なるもの を、ジョルジュ・バタイユが、『呪われた部分』(1949)で、将来的に展開可能な形で提出している、という議論だった。 バタイユの唱えた 「普遍経済学」 は、生産と蓄積ではなく、消費と蕩尽に焦点を当てた試みであり、第一次大戦と第二次大戦は、この過剰なものの最悪の蕩尽形態だとする。 バタイユの議論においては、 人類史における過剰なるもの を根底で支えているのは、 太陽エネルギーである 。 要するに、バタイユの思想は、「生命=太陽エネルギーを内部に蓄える仕組み、地球で生じた生命体は降り注ぐ太陽エネルギーを糧として進化を遂げ、さまざまな動植物として発展してゆき、ついには人類が生じた、私たち自身が太陽のエネルギーの保存形式」ということになる。 過剰なるものの太陽エネルギー根源論 は、興味深いものであるが、バタイユ自身は、こう述べている。 「生命の最も普遍的な...

一日一句(5910)

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  みんみんの聲遠くなる真昼時

一日一句(5909)

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  ろんらんと歯根の疼く銀河かな