■5月16日、土曜日、積雲のある青空。 ママチャリの重量が意外に重く、20㎏以上もあり、ここは、エレベータも駐輪場もないので、3階の自室まで狭い階段を自転車を上げることになる。 2回ほど試みたが、日常的に3階までの往復は、無理と悟った。ママチャリをなめていた。 致し方がないので、軽量のクロスバイクに買い替えた。ママチャリの3倍以上もコストがかかった。 車体はホワイトだが、名前は、そのまま、「わらび」と呼ぶことにした。 ★ いろいろが重なって、少し沼ってしまって、いくつか、会合等をキャンセルした。 沼の最大の原因は、ニコの、レファレンスや索引を入れると、500頁近いの著作の最終チェックなんだが、おおよそ、チェックが終わり、あとは、訳者あとがきを書いて、ニコに、日本語版の序文をお願いすることになる。 いろいろのもうひとつは、「老化と記憶」というテーマで書く予定の1万2000字のエッセイなんだが、私としては、自分の介護経験もあるので、気合が入っている。 その参考文献として、兼本浩祐著 『「わたし」が死ぬということの哲学』 (ちくまプリマ―新書)という本を読んでいる。これは、とても面白い。 兼本さんは、精神医学と臨床てんかん学が専門の医師で、哲学的な知見も広く、しかも、詩人である。稀有なひとと思う。 紀元前から現代まで、不老不死は、紀元前では、秦の始皇帝などの帝王が、現代では、ピーター・ティールやイーロン・マスク、あるいは、ジェフリー・エプスタインような、大富豪がこの願望を表明し、ピーター・ティールは、若者の血を輸血することにより、若返りを図るプランを、実際に検討している。 彼らに共通するのは、自分の不老不死だけを願っている、ということで、個体の不老不死は、多細胞生物である人類は、進化の途中で、種の生存戦略と引き換えに、意図的に放棄している。 兼本さんの本を読むと、進化のプロセスは、個体の存続よりも、種の存続を確実に優先していることがわかる。 他方、個体の代替不可能性や唯一性は、人間に、AIにはない「痛み」を産み、哲学的な思考なども生んできた。 しかし、「痛み」は、たとえば、子を失った象などにもある。 象は、我が子を「唯一者」として認識している。 象の「痛み」は、哲学は生まないかもしれないが、心は作るのではないかと思われる。 その一方で、人間存在は、自然的存在か...