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若宮日誌(481)

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  ■10月14日、水曜日、積雲ある晴れ。 夜、北風が強く吹く。木々の葉擦れの音が、潮騒のようにうねっている。 さいたまで借りていた文献10冊を、六本木の事務所へ宅配便で返却。 セブンイレブンで宅配便を出したときに、好物のアンドーナツが、揚げたてで売られているのに気が付いて、買ってみたが、いまひとつだった。残念。 家の担当箇所の掃除、ごみ捨てなど。 その後、Kさんのところまで、歩いていき、メガネの調整をお願いする。 神武天皇陵のことを話すと、驚いていた。 帰りに、ノジマでSDカードを購入。京都ヨドバシの半額で入手。 珈琲館で、 スイートポテト・ホットケーキ を食す。これは美味しかった。 ★ 夜、南方熊楠の南方曼荼羅関係の 論文 「南方熊楠の自然哲学とシステム認識」を読む。 南方曼荼羅というのは、知識論、科学基礎論、科学哲学とも言えると思うが、この論文は、かなり面白いもので、著者の千葉商科大学大学院の出口弘教授の関連論文を何本か、ダウンロードした。 出口さんの論文を一読した限り、熊楠の知識論は、存在論が弱いと感じた。 主に、知識を知識として扱っているように思えた。 知識は知識的存在である がゆえ、知識の組み込まれた 社会過程 や 生活過程 、 社会構造、としての知識 を考えざるを得ない。 社会哲学よりも自然哲学が、熊楠は前景に出ているように感じられるのである。 言い換えると、南方曼荼羅として結晶するべき「整理された知識」としての科学的知識は、自然的存在と社会的存在の断絶性への感度が弱くなる。 つまり、粘菌から動植物とその進化、人間とその精神、宗教、民族、社会へと生命を持つシステムを、 連続的に、一元的に 、捉えているように思える。 ここには、 目的定立を伴う労働 を行う 社会的存在である人間 と、 そういう選択の自由を伴った労働を行わない自然的存在との断絶性 への感度が後退している。 この断絶性と連続性は、 両面として 考える必要があるというのが、今の私の意見である。

一日一句(5954)

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  閻王は神武くはへし紅葉かな

一日一句(5953)

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  我を離れ我を遊びけり秋の雲

京都日誌(480)

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  ■10月12日、月曜日、快晴。 終日、仕事。 若宮へ本と資料の宅配便を出す。 若宮では、主に、11月の公開講座で行う科学基礎論『目的論・因果論・偶然論──観測者問題について』の骨格をまとめたい。ヴィトゲンシュタインにヒントを得た、新しい基礎概念である 社会的実践ゲーム(Soziales Praxisspiel) を、土台に組み立ててみる。上手くいくかどうか、わからない。 岐阜大学大学院の下畑先生の『 一生パフォーマンスする脳 』が届いたので、ひとわたり読んだ。 この本は、認知症予防のための最新情報・対策が、やさしくコンパクトに書いてある。 いろいろ参考になったが、有酸素運動は、週に150分というのは、なかなか、困った。 1回30分でも週5日は、なかなか、きびしい。 普段の生活に取り込むのがベターなんだろう。 ★ 「おおくぼまちづくり館」 の資料によると、洞村の全村移転の話が、そもそも、出てきたのは、1912年に明治天皇が亡くなって、1914年(大正14)に、新天皇の即位の礼が行われることになった。 さらに、1915年に、新天皇の「神武陵行幸」が予定されると、洞村を全村移転せよ、という意見が出始める。 この意見の一部を、これから、2つ紹介するが、それは恐るべく歪んだものであり、 支配層の分断統治の幇間の極致 とも言え、気分が悪くなるが、これがリアルなのである。 後藤秀穂著『皇陵史稿』(1913年) 「(前略)驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。 知るや、知らずや、政府も人民も、平気な顔で澄ましている。 事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。 しかも、それが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山に爛れ、腐れ、そして、千万世(ちよろず)に白骨を残すのである。 どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して、神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りては言語道断なり。 聖跡図志には、この穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして今やほとんど倍数に達す。 こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸、おいおい霊山の全部を侵食する」。 この本は、今か...

一日一句5952)

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赤松やきのふの秋日去来して

京都日誌(479)

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  ■10月11日、日曜日、快晴。 きょうは、朝から、近鉄で畝傍御陵へ向かう。奈良散歩。 駅に降りて、まず確認したのは、畝山(洞村)、橿原神宮、畝傍御陵=神武天皇陵の空間配置だった。 駅にごく近いところに、日本の大和朝廷関連の考古学的知識の生産拠点である橿原考古学研究所と、その付属博物館が位置することも判った。 これらは、ここが、「建国の聖地」であることを、その空間配置によって意味するように演出されている。 特に、日本の考古学的知識の生産拠点を、ここに据えたことは、「建国の聖地」にリアリティーを与えることに成功している。 これらは、記紀に出てくる畝山や橿原神宮、神武御陵の空間配置を用いて、建国の時空間をここに確定するという、大掛かりな社会操作と言える。 社会操作は、その規模が大きいほど操作効果は大きくなる。 今回、大久保町の「まちづくり記念館」の資料から、新しく判った知見の一つは、神武陵の確定は、1657年に着手した水戸光圀の『大日本史』編纂の頃から、繰り返し論争が起きていたということだった。 実在しない神話の人物の墓陵を確定する論争が、1863年まで200年以上続いていたのである! これらの論争においては、その神武墓陵の候補地が6ヶ所にも及んだ。 この論争の経緯によって、1698年から166年間も、現在の第2代の綏靖天皇陵(これも実在性については議論がある)が、神武天皇陵とされていたのである。 この論争に関与したのは、錚々たる人物達で、本居宣長や蒲生君平、貝原益軒、徳川斉昭らがいた。 これらの論争と、その確定結果に影響を持ったのは、幕府の衰退とペリー来航による攘夷論の沸騰だった。 幕府は、公武合体政策で生き残りを賭けるために、宇都宮藩からの修陵の建白に乗り、1863年に、神武陵が新しく神武田の地に創られることになった。 これが、神武天皇陵の原型となる。 この神武天皇陵が、橿原神宮の拡張と軌を一にして、拡張されていく。 最初の拡張は、日清戦争と日露戦争の間に行われる。 それは、日清戦争の戦勝記念の拡張工事だった。 対外的な膨張と、この神武陵・橿原神宮の拡張工事は対応する形で進む。 (気が向いたら、続く) ★ 夜、奈良から帰宅すると、即、洗濯、コインランドリーで乾燥。