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京都日誌(487)

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  ■10月28日、水曜日、曇りのち時々小雨。 朝から、副鼻腔炎の治療で、府立医大病院へ。 経過は順調なので、12月まで抗菌薬治療を続けることに。 府立医大の河原町通りを越えて、西進するとすぐに梨木神社があり、その隣が御所になっている。 御所は、まだ、紅葉はほとんどなく、薄紅葉といったところ。 烏丸通側に回って、ぼんやり、御所の砂利道を南下していると、栴檀(せんだん)の木を見つけた(写真)。 初めて、栴檀の木というのを見た。 今は、 栴檀の実 をつけている。5月中旬から下旬に、紫の藤に少し似た、もっと 渋い花 が咲く。 栴檀の実も栴檀の花も季語になっている。 調べてみると、清少納言がこう言っている。 「木のさまにくげなれど、楝(あふち)の花いとをかし。かれがれに様異に咲きて、必ず五月五日にあふもをかし」(木の形は不格好だけれど、楝(おうち)の花は、とてもおもしろい。乾いた感じでいっぷう変わって咲いて、必ず五月五日に咲き合わせるというのもおもしろい)。 だが、木の形も、いとをかしではないかと思える(画像)。 この木の古名が、楝(あふち)の花というのは、私の苗字に近い音で親近感をもった。 また、あふちの花は、「会う」に掛けられる。物の怪に「遭う」でもいいと思うが。 その後、烏丸通を南下し、『School Bus Cofee』で少し休んで、そのまま、歩いて、千本まで帰宅。 途中、何度か、時雨に降られた。 きょうの京都は、夜、「雪( Y uki)なる寒さやわ」という会話が聞こえてくるほど、冷え込んだ。

一日一句(5962)

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  ゆくりなく朝に咳き込む白芙蓉

京都日誌(486)

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  ■10月27日、火曜日、曇りのち晴れ。 ひとわたり掃除して、心身・身心調整を行い外出。 府市民税や国保、介護保険料など、一気に支払う。 これで、年度末までは、京都・埼玉の生活費と京都・埼玉の往復コストだけ、心配すればいい。 六本木の仕事も急激に減少しているので、年金だけでは、諸々のコストは賄えない。 来年から、何らかの職探しをしないといけなくなるかもしれない。 ただ、私には、直感的で経験的な信念があり、それは、 質のいい睡眠が取れて、心身・身心調整が成功し、晴れやかな気分を維持できれば、たいていの問題は解決できる という信念である。 今までも、数限りない試練があったが、振り返ってみれば、そのすべてにおいて、解決に導いている。 これは、 AIの時代と呼応する 、と私は直感している。 AIには、身体がない。 現時点では、人型ロボットはあるが、人間レベルの身体性を保有していない。 心身・身心調整というのは、初期仏教の瞑想などの修行も含み、 心の鍛錬 も含む。 こうした 心身・身心の全体的な修行 というのは、 AIとの関係を逆転させることなく 、つまり、 主人ではなく道具としてのAIとの創造的な関係 を創る上で、 ひとつのポイントになる と私は思っている。 AIは、今、特に数学の分野で、次々に新しい発見や証明を行い、プロの数学者を凌駕する業績を上げている一方で、大学や高校、中学において、 学生の知的能力の劣化 が急速に進行している。 もう数年すれば、 社会全体の知的能力の劣化 となって現れてくるだろう。 その社会では、AIに依存しないと、計算も推論も論理的な判断もできないAI世代が増えてくる。 道具が主人に逆転した社会は、すでに始まっている。 他方で、人間の知的能力を 所有のひとつ と考え、つまり、 知性を資本と見なすことで、AIと人間との切り離し が進んでいる。 学校のテストや研究や、小説・詩・俳句などのさまざまなコンクールにおいて、 人間オリジナルを、抽象化して価値づける方向性がそれである 。 それは、 知識の特許化と同じ発想 であり、 知識を囲い込んで個人所有し、資本化することで、資本の増殖に資するという、隠れた意図 がある。 近代社会・近代国家において、資本主義の枠組みの中で、人間知性も存在しているからだ。 このどちらにも組しない ために、人間の心身・身...

一日一句(5961)

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  白壁にものの翳揺れ秋の薔薇

京都日誌(485)

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  ■10月25日、日曜日、曇り。 朝、家の体組成計で4ヶ月ぶりに測定。 データは、AIに記憶させた。 6月のデータと比較して、「良好」と言ってきた。 家庭用の体組成計なので、正確さはそれほどではないと思うが、心身・身心調整の方向性は、凡そこれでいいことが判る。 体内年齢は、前回と同じで、50歳だった。 午後、京都へ戻る。 東京も京都も雨は降っていゐなかった。 今回は、宅配便で本と衣類を送ったが、あとから荷物が増えて、4つも持って帰ったので、一定庵にたどり着くと、ぐったり疲れてしまった。 帰宅後、郵便物等の整理。 少し休んで、千本通りを南下。 すきやで牛皿・焼鯖定食を食べて──やけに牛肉の量が減ったが、気のせいか?──中央図書館へ2冊返却し、そのまま、堀川まで歩いて、大垣書店で『九条の大罪』14巻を購い、中立売通を今度は西進して、千本へ戻って、イズミヤで買い物して帰宅。 夜の散歩となった。 40年前の学生のときも、こうして夜──特に真冬の、今より遥かに寒かった京都の夜──よく出歩いていたことをふと思い出した。 歩きながら、田畑さんから届いた、AI革命関連の原稿執筆依頼の手紙を思い出し、AI革命や科学技術に関して、 明晰に対自化されていない文脈を、対自化することで、原理的なAI革命批判ができるかもしれない と思いついた。 それは、 ユダヤ ─ キリスト教の唯一神文明 という文脈である。 マルクスにしても、ルカーチにしても、ヘーゲルなどはあからさまにそうだが、キリスト教文明の文脈を前提に思索している。 それにアンチを唱えるにしても、それに唱和するにしても。 それが、その前提の文脈とセットで、日本へ輸入されることはなく、 社会科学あるいは自然科学として、唯一神文明の文脈の方は隠されてしまう、あるいは、議論の対象から疎外されてしまう 。 それがなくても、たとえば、労働論やイデオロギー論などとして、十分に完結した理論として、理解が可能であり──その理解においても、重要な論点は複数、存在している。 こうした労働論やイデオロギー論の現実形態は、良くも悪くも、近代社会や近代国家の編成原理に、制度や知識、教育などを通じて、深い影響を与えている。 科学は、目的定立を伴う労働実践において、目的達成手段の選択肢として発展してきたという原理的な説明が可能であり、それは、普遍的な説得力...

一日一句(5960)

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  芙蓉ゆれ我が身もゆれてゐたりけり