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京都日誌(473)

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  ■10月6日、火曜日、積雲ある晴れ。 身心調整後、掃除、それから、一気に夕方まで仕事。 軽く食べて、運動へ。 帰宅後、すぐに、仕事をする気にもならないので、中上健次の『日輪の翼』を読み始めた。 この本は、若宮時代から積読になっていたものを、京都まで運んだのだが、京都でもずっとタイミングが訪れずに、積読になっていた。 こっちも、さんざん人生で苦労してきているから、浅はかな文体なら、すぐに、底は割れるぞ、という気分で読み始めた。 中上、38歳のときの作品である。中上は46歳で亡くなっている。 ベッドで読み始めると、すぐに引き込まれた。 短い一、二行で、その人物の背景を浮き彫りにする手腕が冴えている。 ただ、一点、気になったのは、夏芙蓉の描写で、彼の描写だと、夏芙蓉は、垂直的な樹木に思えてくる。実際は、どちらかと言えば、水平的な樹木である。 若い時、まだ、企業に勤めていたころ、彼の対談集を好んで読んだ時期があった。その後、短編集『熊野集』を読んだ。 『千年の愉楽』や『奇蹟』などの代表作は、まだ読んでいない。これから、楽しみである。

一日一句(5946)

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  秋深き虚空は此処を動かざる

京都日誌(472)

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  ■10月5日、月曜日、曇り。 9月30日から、左副鼻腔炎の治療を開始して、1週間。呼吸がだいぶ楽になった。 この感覚は、数十年ぶりで、世界の全体が違って感じられるほど。 身体性は、すべての基盤であり、ここの調整は最優先と思っている。 身体性は、AIにはない。 知識には、理論知と実践知があるが、言論の世界では、理論知が力を発揮する(それはそれで、非常に重要だが)。 そして、数学の未解決問題をAIが次々に解いているように、理論知は、AIの得意分野だが、実践知はそうではない。 実践知は、身体化され、暗黙知化されている。 なので、ちょうど、社会科学知が、自然科学知のように、劇的な効果が社会にとってないように見えるが、実は社会科学知は制度化されていたり常識化されて社会に大きな影響を及ぼしているように、実践知は、理論知と同じか、それ以上であり、今後は、この実践知の価値は、格段に高くなると私は思っている。 問題は恐らく、狭い時空の中で成立する場合が多い実践知を、どのように広い時空の理論知に接続するか、ということになるかもしれない。 ★ 先日、社会操作に対する免疫あるいは解毒剤として、植民地他者の聲が有効であり、謙虚に耳を傾けると、そこには、宝があるという 趣旨の話 を書いた。 社会操作には、それが行われる社会空間がある。 植民地他者の聲が有効なのは、主に、ひとつの民族国家、言い換えれば、一国家利権村の社会空間で行われる社会操作である。 ところが、この国家利権村は、 国際国家利権村という上位の連合体(序列があり主従がある) に組み込まれている。 そこでの社会操作は、より広い社会空間で行われているのである。 それは、経済関係で結びついているというよりも、 日米安保条約やNATOのような軍事同盟 で結びついている。 この社会空間で西側メディアやテレビ評論家などが行っている社会操作を解くには、それらが 悪魔化 している、ロシアや中国などの国家利権村の指導者達の聲を 虚心に聞く と効果がある。 これを、一般に、ここでは、プロパガンダに「洗脳された」と言う。 本当にそうだろうか? もちろん、その国家群がすべて善とは言わない。 そもそも、貧困を生み出す市場に加担して、腐敗していない国家は存在しない。 そこにおいて、抑圧されている人々も存在する。 だが、我々は、もっと プロパガンダの...

京都日誌(471)

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  ■10月4日、日曜日、秋雨。 きょうは、終日、雨だった。 一日、ニコの仕事を行う。 ようやく、インタビューの部分が、終了した。ニコが参考に送ってくれたインタビューのファイルをすべて著作『ナレッジアビリティ』に入れることにしたので、このインタビューだけで3万字を越えている。 「インタビューでは尋ねられなかった質問」という項目が別途あって、これが面白かった。 ニコが新たに日本語版のために書き下ろしてくれた序文も入れると、全体で500頁は超えるだろう。 この仕事は、いろいろ意味で勉強になった。 特に、現代社会における知識の決定的な重要性に目を開かせてくれた。 いろいろ、やることが多くあり──ありすぎ、その意味では、幸せなんだろう。 これで、お金になれば...

一日一句(5945)

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  遠き聲秋は虚空が美しき

京都日誌(470)

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  ■10月3日、土曜日、巻雲ある晴れ。 身心調整、洗濯、コインランドリー、食事。 食事したら、体全体が重くなり、だるくなって、なにもできなくなる。 1時間ほど休むと、もとに戻った。 朝のプチ断食後の食事は、こうなることがある。 その後、運動へ。 夜、NHK「未解決事件 File.19 『北関東連続幼女誘拐・殺人事件』」を 視聴 。 多くの人が、この番組を、──かつて、ウクライナのネオナチの件で、平然と情報操作を番組中で行い、NATOの戦争戦略へと方向づけた、信奉者の多い、某著名ジャーナリスト(私は、この人をほとんど信用していない。国内問題だけ見ていると、そうは見えないが、典型的な国家利権村ジャーナリストの1人である ) も含めて──「衝撃的」と評している。 それは、違うだろう。 検察・警察による組織的な、17年間の冤罪自由強奪(足利事件)と冤罪殺人(飯塚事件)が行われた、ということであり、怒るところだろう。 検察・警察は、既存メディアと並んで、代表的な国家利権村の守護神であり、彼らが守っているのは、国民の権利ではなく、国家利権村の利権である。 それがよく見えた番組だった。NHKは、報道部は、社会操作の中核だが、ドキュメンタリー部門はよくやっている。 私が今取り組んでいるドイツの知識社会学者、 ニコ・シュテール は、今年5月の行われたインタビューで、知識について、こう述べている。 「私の考える知識は、個人が精神の中に所有するものではありません。誰かが引き出しの中の道具のように『持っている』私的な認知資源ではないのです。知識が生じ、安定し、効果を発揮するのは、常に社会的実践、制度的構造、共有された解釈の枠組みの中においてのみです。 『集合的な状態』とは、誰もが同じことを知っているという意味ではなく、知識が専門職の共同体、学問分野、組織、文化的伝統といった社会的な担い手の構造に、その成り立ちから依存しているという意味です。 知識を文脈から切り離して移転できる単位として扱う、経済学や情報科学の情報概念に対して、私は、知識はファイルのように単純に『移転』できるものではないと強調します。 知識は、(※情報とは異なり)新たな文脈に位置づけ直されなければならず、その位置づけ直しは、常に社会的に媒介されます。 私が批判的に取り組んでいるハイエクの分散した知識の概念に対しては...