■9月7日、月曜日、曇り。きょうは、涼しかった。 便利堂書店で、私の愛読書『週刊現代』を買ったときに、「きょうは涼しいね」と話しかけると、店番のおばちゃんも、「まあまあ(涼しい)ね」と言っていた。 おばちゃんには、まあまあらしい。 朝、あわただしく6冊の冊子から、必要ヶ所をコピーして、札幌へ送る。 身心調整、掃除、即、仕事に入る。 9時間半、険しい労働をして、ルイボスティーを飲む。 ★ ウトロ平和祈念館 から、 『長生炭鉱』 図録が送られてきた。 この炭鉱の存在は、まったく知らなかった。 これは、山口県宇部市にあった海底炭鉱。1942年2月3日、水没事故によって183名が命を落とした。そのうち136名は、朝鮮半島から動員され、働かされていた。 長生炭鉱は、概ね1914年(大正3年)から1942年(昭和17年)まで稼働していた。ただし、途中に、水没事故による約10年間の休業期間がある(1922-1932)。 つまり、183人が亡くなる20年前にも、大きな水没事故があったのである。 長生炭鉱の労働者の75%が朝鮮人だった。当時、山口県の炭鉱全体における朝鮮人労働者の割合は、9.3%だった。 長生炭鉱は、桁違いに朝鮮人が多かった。 それは、1922年に大きな水没事故が起きたように、水没事故の可能性が、他の炭鉱よりも高く、そのことを、知っていた地元の日本人労働者を集められなかったからだろう。 朝鮮人労働者は、強制連行で日本へ連れてこられるか、甘言で騙されて連れてこられた。 このとき、水没事故のリスクは、まったく触れられず、「しっかり働けば、郷里に家が建つし、広い田も買える」といった言葉が、釜山などでは、言われていたという。 当時、長生炭鉱の寮に閉じ込められたひとの証言では、「ひとの背の二倍くらいの高さの高い板で周囲は囲まれており、よじ登れないようになっていた。寮から逃げて運悪く捕らえられると、素っ裸にされて、木刀ではなく革の帯で命が亡くなるほどリンチされた」という。 この事故が起きた1942年2月3日は、「大出し」と呼ばれる増産日だった。 事故の直接の原因は、拂堀り(はらいぼり)という非常に危険な採掘手法だった。 これは、天井を支えるために残すべき炭柱まで削り取る強引な手法で、これによって、要請された石炭量を供出していたのである。 粘結性のある石炭を乾留してコー...