■9月19日、土曜日、曇り。 午前中、身心調整。 その後、西宮へ。 田畑さんの 「マルクス講座」第8回 。 今回もかなり面白く、また、勉強になった。 田畑さんの力点は、社会変革の運動論としての思想にある。 その思想を、マルクスの生活過程論の全体構成の中に位置づけている点が、21世紀のマルクス読解としての特徴になっている。依拠するマルクスのテクストは、『ドイツイデオロギー』「5.断片」(1845/46)や『経済学批判序言』(1859)、『資本論』の物象化論・転倒論である。 この点は、20世紀のマルクスレーニン主義のマルクス読解とは一線を画している。スターリンは、人と人との関係をテーマ化しなかった。 今でも、マルクスと言えば、旧ソ連のマルクス読解しか念頭になく、そのため、マルクスに悪感情を持っているケースは存在する。 思想と生活過程論は、どのようにリンクしているかというと、『ドイツイデオロギー』では、次のように述べている。 「意識とは意識的存在以外の何物でもなく、人間達の存在とは彼らの現実的な生活過程のことなのだ」。 ここで言う意識が、田畑さんの言う、思想にあたる(私が田畑さんに「思想」という言葉の使い方を確認したところ、 言語を媒介にした思考されたもの を思想と言っていることがわかった)。 さらに、『経済学批判序言』では、具体的にこう述べている。 「物質的生活(衣食住)の生産の様式が、社会的生活過程、政治的生活過程、精神的生活過程一般を条件づける」。 ここで言う、精神的生活過程が、思想的営為のことになる。 マルクスレーニン主義では、たとえば、政治的生活過程論は、国家論としてのみ議論されてきた。現実には、政治的行為が構造化されて国家が生じるのに、そのプロセスが抜け落ちるので、個人の生活過程(人生)と乖離した地点で議論されてしまう。 そして、資本論(第1巻、第9章「剰余価値の率と総量」の末尾)は、生産手段の転倒をこう述べている。 「生産手段を用いるのは、もはや労働者ではなく、労働者を用いるのが、生産手段なのである。生産手段は、労働者の生産活動の素材的要素として費消される代わりに、生産手段が労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として費消するのであり、資本の生活過程とは単に自己自身を価値増殖する価値としてのその運動にある」。 このような転倒が今、もっとも起きている...