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京都日誌(424)

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  ■7月11日(土)曇り 午前中、仕事して、午後から西宮へでかける。大阪哲学学校の 「再考・メルロ=ポンティの身体性の哲学」 。 いろいろ、仕事が溜まっていて、きょう出かけるのは無理かもしれないと思っていたが、今朝6時に起きて、ひとつの仕事を一段落させたので、思い切ってでかけた。 非常に実り豊かだった。 私は、名ばかりの メルロ・ポンティ・サークル の会員なのだが、もうかれこれ、10年以上、メルロ=ポンティの哲学には、関心を寄せ続けている。 きょうは、改めて、メルロ=ポンティの哲学について、学び直す機会をいただけた。 もっとも、収穫になったのは、私のT-N-S Theoryの理論的な課題になっている、biosemioticsとジェルジ・ルカーチの社会基礎論を統合して、自然的存在まで射程に入れた時間空間理論の構築にとって、どうやら、このメルロ=ポンティ哲学と、その系譜が、このときの要になるという直感を得たことだった。 メルロ=ポンティ哲学は、こうも言えるのである。つまり、それは、ユクスキュルのUmwelt論の社会哲学的・現象学的表現だと。 田畑先生からは、メルロ=ポンティの身体論をドイツに輸入し、マルクスに則した身体論を展開したドイツの哲学者、 ベルンハルト・ヴァンデンフェルス への言及があり、今後の検討対象としてリストに入れた。 また、社会操作論としても、身体論は重要だという指摘が、田畑先生からあった。この点も宿題となった。 メルロ=ポンティは、身体論の他にも、初期の『行動の構造』(1941)におけるゲシュタルト論が重要で、これは、自然科学的思考の特徴である、「要素還元⇒全体総和」の思想と方法論では、対象全体を捉えられないことを端的に示している。 このときのゲシュタルト論の全体性の概念と探求方法を、ルカーチやマルクス、ヘーゲル、あるいはデュルケムのそれと比較することで、既存の自然科学的思考を止揚する可能性が開けるように感じた。 きょうは、私の方からは、身体⇒道具(巨大システム、AI)⇒対象の構図における、身体と道具のインターフェースの問題に、メルロ=ポンティの身体論は、ひとつの問題解決を提示するだろうという点。 また、三木清が『歴史哲学』の中で展開した「社会的身体」の概念を、上述の構図の中で、<身体⇒道具(巨大システム、AI)>(協同・分業的な空間=社会的...

一日一句(5965)

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  黒黴や隙といふものしづかなる

一日一句(5964)

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  一点の黴空間の静寂

一日一句(5963)

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  一点の黴に虚空は 如何ならん

一日一句(5962)

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青梅雨の青に浮いたる地球かな  

一日一句(5961)

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  青梅雨の音に眠れる赤子かな

一日一句(5960)

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  あらぬものあるもの梅雨の音の中