京都日誌(425)
■7月13日、月曜日。積乱雲ある晴れ。 朝から洗濯、掃除。 ロミー が入院中に書いたと言って、21編の詩編を送ってくれたので、そのうちの1つを選んで、コメント書いて、私の縁起の俳句の英訳と一緒に送る。 このコメントは刺さったようで、3時間で返信があった。 夕方、Kon's Cycleに自転車の空気を入れに行く。そのまま、千本通を全速力で北上して、北大路まで出て、また戻る。 この数ヶ月、もろもろ多忙で、5月18日(月)に、ブランシュと名づけた、この白いクロスバイクが納車されて、きょう初めて、少し乗ることが出来た。 乗ってみて、ブレーキやギアの切り替えの感覚、信号で停車したときの脚の位置の感覚などを覚えた。 京都の大通は、意外に、凹凸がある。また、バスとタクシーが、バイクの前に、突如現れて、突如停車するので、この2車種を巧くかわすことが、走行上のポイントになると思える。 普段は、歩くことしかしていないので、バイクだと、空間のあり方が、異なって現われ、なかなか、気分はいい。特に、千本通は、傾斜が北へ行くほどきつくなり、ギアを重くしておくと、完全に脚の筋トレになる。 帰りは、漕ぐ必要がまったくなく、今出川まで滑るように戻れる。かなりのスピードが出た。 ブランシュと一体化した時、身体がどのような形で拡張されるのか、そこに関心を持っている。 この身体の拡張にこそ、身体と、テクノロジーや巨大システムあるいはAIとの間に必然的に生じるインターフェースの問題が隠されており、事故の原因論として、運転員の操作ミスといった 単なるレッテル を張るだけで、十分な解明が繰り返しできない領域となっている。 実は、ここそが、 biosemioticsを応用した運転員の環世界の分析(生活世界の記述ではなく) が必要なところなのである。 現在、執筆中の『翁草』の原稿─社会操作の一般理論に向けて─の連載においては、靖国神社の分析を行うが、 靖国神社が知覚標識として存在する機能環を持つ環世界全体 の 批判的な分析 を試みる予定である。 帰宅すると、たいした時間、乗っていないのに、汗が吹き出し、そこそこ、自転車は、短時間でも、運動になることが判った。有酸素運動としても使えそうである。 ★ ロミー の詩は以下のような、なかなか、面白く、深いものだった。 der himmel aschrot im ...