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京都日誌(460)

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  ■9月16日、水曜日、曇りのち雨。 朝から、一乗寺梅ノ木町のK歯科へ。11月下旬に右下奥歯の抜歯が決まる。 8月末から、複数の歯科医院を受診しての情報と合わせ、きょうのK歯科での新情報も加味すると、口腔全体のレントゲン写真の見方が初めて正しくわかった。 今まで左右逆に認識していた。また、骨の溶解というのは、歯を支える骨が黒い隙間として映っていることで、それとわかる。 骨の溶解は、事実かどうか聞いたとき、K医師がそう説明し、それは一般的なことであるという。抜歯すれば、ある程度、骨は回復するが、原状回復には至らないという。K医師は、「まあ、しゃあーない」と言っていた。 左奥歯の奥から二番目の奥歯も、弱っていることが、きょうわかり、ここも、歯が割れている可能性もあると指摘を受けた。写真では、奥歯に縦に薄く白い線が入っている。 痛みが出ていなければ、経過観察で良いという。 左右共に、奥歯から傷んできている。 帰りは、このあたりは、あまり歩いたことがないので、少しぶらぶらして、叡電で出町まで戻り、久しぶりに、「柳月堂」へ寄る。 柳月堂では、今後の作業を対象化するため、 「五苦曼陀羅」 と 「tm曼陀羅」 を作成。 <空海の曼陀羅─熊楠の曼陀羅─KJ法─圏論>をひとつの系 として考えて、現時点での状況を再定義して、その定義にもとづく Praxisspielとしての曼陀羅 を2種類作成した──5つの苦を中心に、それに対応する行動を細かく記した 五苦曼陀羅 と、研究の範囲が広がってきたので、各理論の関係を整理・関係づける セオリー・マップ曼陀羅 である。 柳月堂でアイス珈琲を運んできてくれた女の子が、ノートの見開き一杯に書いた2種類の曼陀羅をめずらしそうに見ていた。 出町商店街まで、歩きながら、この曼陀羅系を利用した詩が書けないか、考えてみた。 たぶん、そのままやると、昔の図形詩みたいになるだろう。それは、始まりも終わりもなく、朗読も不可能になる。それはそれで面白いが、「それで?」という感じになるか? そういう曼陀羅系を一次資料として、詩を書くことになるのかもしれない。 実験としては、おもしろい。 出町の古本屋2軒へ立ち寄り、雑誌の古本を数冊購入して、帰宅。 帰宅後、身心調整を行い、その後、仕事。

一日一句(5928)

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  秋雨はときにおそろし水の聲

京都日誌(459)

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  ■9月15日、火曜日、曇り、夜、激しい雨。 午前中、身心調整、洗濯、コインランドリー、掃除。 季報『唯物論研究』176号 が届く。 大阪労働学校・アソシエ の9月講座にいくつか申し込む。無料。 宗教哲学と都市社会学の講座。 身心調整のフェイズ1~4を行う。 きょうは、よく眠れたので、気分が良かった。 午後から、仕事関係の作業。 夜、サイモン・シンの『暗号解読』を読む。 ★ 在日朝鮮人学研究者で、 猪飼野セッパラム文庫 スタッフの宋実成(ソン・シルソン)さんの雑誌『ソンジャーナル』が、9月号で、1946年、朝鮮人密航者収容所で、朝鮮人300人が餓死した事件を報じている。 これは、日本の敗戦前後の1944年から1946年に、帰鮮した朝鮮人達が、ふたたび、日本へ渡り、それを密航者として逮捕し、福岡県鐘ヶ崎(鐘ヶ崎村)収容所(合計12名死亡)や長崎県佐世保(針尾)収容所(合計265名死亡)などに収容し、一日握り飯1つの食糧しか与えないことで、餓死させた事件である。 再渡日し「密航」で逮捕された朝鮮人の数は、1946年7月~9月で、佐賀県2748名、長崎県、902名、福岡県3496名で、合計7136名に上った。 再渡日した朝鮮人が多かったのは、帰国先の南朝鮮(現、韓国)が、安心して暮らせる社会状況ではなかったためである。 ・日本の総力戦政策による物価高騰 ・植民地支配を担った親日派朝鮮人が反共親米派に転向して君臨 ・反共政策を優先させた米軍政は社会の安定に失敗し、街中ではテロと労働争議が頻発 ・米価高騰を見越した買い占めで食糧危機が勃発 ・東アジアからの引揚者とともにこれらが流入・蔓延 ・1946年9月には、南朝鮮鉄道ストで鉄道が運休 ・1946年10月には、植民地支配生産と人民政権樹立を求めて大邱ほか各地で「10月抗争」が発生し内乱状態に ・これが、1948年の「済州4.3事件」につながる 収容所環境改善を要望する朝鮮人連盟に対して、米軍佐世保第34部隊のパーキング少佐は、こう回答している。 1.正当な理由ある者は出来る限り即時釈放したい 2.食糧配給を増やすことはできない 3.毛布については余裕があれば配給する 4.逃亡の恐れがあるため収容所内での運動はさせられない 5.日本警察の非人道的破棄外については、調査の後、事実であれば厳罰に処する (1946年12月...

老化と記憶について(季報『唯物論研究』176号)

老化と記憶について                              尾内達也           他界という雨が樹木に染み込み それを養分に私達の中で記憶が萌芽していく。 その気配を思い出し、語り継ぐたびに、風のように森を揺らす。 今世は常に生命の産声が響き続けている。   石原加弥子(二〇二六年) 一   1.   はじめに   本稿は、自明と思われる「老化」と「記憶」と、そして、この二つの関係について改めて検討することを通じて、本特集のテーマである「老いの文化を作る」ことに資することを目的としている。その際、考察対象を個人レベルと社会レベルの二つの次元に分けて考察する。 言い換えると、 個人としての老化とその記憶 、 社会としての老化とその記憶 という問題圏を扱う。   2.     記憶とはなにか?  ニーチェ(一八四四─一九〇〇)は、一八八七年十一月に出版された『道徳の系譜学に向けて』の第二論考「『負い目』、『やましい良心』および関連事項」の中で、記憶の問題を扱っている。  冒頭、ニーチェは、約束と健忘を対比しながら、こう論じる。  「 約束することが許される 動物を育成すること──これがまさに人間に関して自然がみずからに課した、かの逆説的な課題ではないだろうか……。この問題はかなりの程度解決されているが、そのことは、課題に逆向きに働く力である 健忘 の力を十分に尊重する術を心得ている人からすれば、それだけいっそう驚くべきことに思えるに違いない。健忘とは、浅薄な者たちが信じているように、単なる〈惰性力〉なのではない。むしろ、能動的な、最高に厳密な意味で積極的な阻止能力なのであって、この能力のおかげで、われわれが体験し、経験し、内に取り入れるものは、そもそも消化される状態(「魂内同化」と呼んでよいだろう)にある時には、われわれの身体の栄養摂取、いわゆる「体内同化」が行われる幾重にもわたり加工過程全体と同じように、少しも意識に入ってこないのである。意識の扉や窓をしばし閉じること、有用な身体器官の構成するわれわれの皮下世界が互いに協力したり敵対したりしながら繰り広げる騒音や戦いに煩わされずにおかれること、意識の少...

一日一句(5927)

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  秋雨に味噌溶く湯気のうれしさよ

京都日誌(458)

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  ■9月13日、日曜日、積雲ある青空。 写真は、大阪市西区西長堀のロイヤルホストの廊下にできた影と光。 午前中、J.J. Rousseauの『言語起源論』を原文で読む会。 午後、大阪西区民センターで『部落差別と天皇制──旧・洞村(ほうらむら)の強制移転の歴史から学ぶ』(主催:21世紀を考える会)に参加。 たいへん、面白く、また、勉強になった。 2026年は、洞村(ほうらむら)の強制移転から、100年になる。 これは、神武天皇陵と、「古事記」と「日本書紀」をベースに、1889年(明治22年)に、明治政府が神武天皇陵として治定した後──もともと、神武は実在せず、このため、天皇陵の治定には、この畝山中腹以外に、6ヶ所も候補地があった──、1898年に拡張整備が始まった。 この神武天皇陵整備とセットで、橿原神宮を創建し(1890年)神武を祀った。要するに、日本国家の起源をここに捏造したということになる。 この橿原神宮は、日清戦争(1894)後、戦利品の下付を政府に願い出た 記録 がある。このため、境内に戦利品などが置かれ、後世に「戦勝記念神社」として日清戦争と結び付けられてゆく。 このとき、洞村(ほうらむら)は、神武天皇陵を見下ろす位置にあり、1915年に、奈良県が示した移転理由書の中に、「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼に堪えざること」とある。 要するに、明治国家に、強制移転させられたのである。 洞村(ほうらむら)は、被差別部落だった。被差別部落で、差別は受けていたが、経済的に困窮していた、ということではなかったようである。 畝山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞村は、全戸208戸、計1058人が退去した。その過程で、生後1年以内の乳幼児8人を含む13人が亡くなっている。 橿原神宮は、1890年(明治23年)畝山の東南に創建されたが、1912年(大正元年)には、神域が拡張され、さらに、1940年(昭和15年)紀元2600年記念祝典の祭にも、神武陵とともにに、現在の大きさに拡張された。 神武陵など複数の天皇陵の特定は、1889年(明治22年)の大日本国憲法の制定の年に、伊藤博文を中心として、一気に進んだ。 万世一系の国家という虚構を作っていくためには、天皇陵の治定が必須で、このふたつは、同時進行している。 他方、 靖国神社 の前身の東京招魂社の...