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京都日誌(453)

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  ■9月6日、日曜日、曇り、夜、秋雨。 東京、埼玉県、神奈川県、千葉県に、線状降水帯半日前予測が出ている。 午前中、洗濯、コインランドリー、掃除、身心調整。 午後からニコの仕事を深夜まで。 訳注に凝るたちなので、進みが悪かった。 日本で、今や唯一となった、ルカーチ研究者の秋元由裕さん(北星学園大)とつながり、ルカーチの翻訳連載を送ることに。 次々に、ルカーチ研究者が亡くなって、引き継ぐ人がいない。世代交代にならない。 私のような、在野の研究者でも、貴重がられるほどである。 海外も同じような状況で、フランスでは、ルカーチの晩年の大著『社会的存在の存在論』の仏語版作成を、定年退職した在野の研究者が行っている。 監修は、プロの哲学者。 秋から、できれば、御所周りで、インターバル・ウォーキング+ジョギングを再開すべく、安価なランニング・ポーチを購入。

一日一句(5919)

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  一樹なる九月は天の余白かな

一日一句(5918)

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  月しろの木々もおのれもむかしかな

京都日誌(452)

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  ■9月5日、土曜日、積雲ある晴れ。 午前中、身心調整。午後、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を検討。 古田徹也さんのわかりやすい解説に助けられる。 『論理哲学論考』の基本的なアイディアは、写像理論で、これは言語が、世界の中の事態─成立していないこと(=虚構)も、成立していること(=事実)も含む──を、模型として反映しているという理論になる。 前期ヴィトゲンシュタインの議論は、きれいな反映論になっている。この反映論は、そのまま、命題論という表現論であり、世界と人間を媒介するメディア論となっている。 ヴィトゲンシュタインの写像理論は、私の類型で言うと、認識論的反映論のみを扱っており、目的論的反映論が欠落している。 このため、この 写像理論はスタティックで受動的な性格 を強く持っている。 人間は、世界の所与の事態を言語で写像するだけでなく、 事態の望ましいあり方 を言語において、 先行的に反映し実現しながら生活している 。 つまり、所与の事態を受動的に、認識論的に言語に反映するだけでなく、言語への反映を利用して、 新しい事態 を 絶えず創り出している 面がある。 この点への思索が、前期ヴィトゲンシュタインは弱い。 後期ヴィトゲンシュタインとの断絶性なども見ながら、前期をもう少し、古田さんの解説などを通じて検討してみたい。 夜、 味噌煮込み雑炊を作り、ニコの仕事を行う。

一日一句(5917)

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  うつけとはおのれのことか秋の風

京都日誌(451)

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  ■9月4日、金曜日、秋雨。 午前中、所用で銀行へ。 偶然、出町のミスドーで写真家の甲斐さんと会う。 帰りに、イズミヤで三輪素麺を買う。 午後、『IDEE』183号を5氏に送る。 結構、時間がかかった。 今回は、ルカーチの人間中心主義をユクスキュルで補正し、レーニン以降、評判の悪い反映論だが、ルカーチの反映論を、 認識論的反映論 と 目的論的反映論 の2つの類型に分けて論じた。 認識論的反映論には、個人の水準と社会の水準があり、 社会的な水準では、表現論とリンクできる ことが見えてきた。 その後、靖国神社の分析のために、メモをいくつか作成。 基本的なアイディアは、 社会操作プロセスとしての靖国 を分析するというもの。 この議論の前提として、国家をどう考えるか、天皇制をどう考えるか、という問題は避けられない。 今のところ、近代国家を政治学的レベルで、 民族国家 として捉え、経済学的レベルで、 国家利権村 として捉え、 民族国家間関係の中で、この2つの側面のダイナミズム として、そして、 時間軸の中で変化する存在 として、この国家の運動を捉えるアイディアを持っている。 夜、仕事関係のYouTubeを2本視聴、その後、ニコの仕事へ入る。

一日一句(5916)

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  白川や道掃く音も秋のもの