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京都日誌(466)

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  ■9月26日、土曜日、秋雨。 朝、身心調整を行い、所用で、雨の中を外出。用を終えて図書館で、本を返し、即、予約を入れる。 ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』は、古本でも高くて買えない。早急に、母校、同志社と関西学院の図書館利用カードを作成しないと。 帰宅後、ニコの仕事に取り組む。 夕方から、社会学者の堀田泉さんのウェビナー「マックス・ウェーバーの都市理論」( 大阪労働学校・アソシエ )に参加。 堀田さんや、会の主催者、斎藤日出治さんと、少し議論する。 近代を制度面から定義するとしたら、計算可能性や合理性の普遍化ということができるという指摘を堀田さんよりいただく。 斎藤さんからは、究極の目的が喪失し、来世で救済される意識が薄らぐことで、つまり、永遠の意識が消えていくことで、現世内を充実させる方向へと、時間意識が変化しているというお話があった。 それは『加速する社会――近代における時間構造の変容』で、ドイツの社会学者ハルトムート・ローザが展開している論点であると。 私の方からは、宗教社会学者のトーマス・ルックマンが、1960年代に、『見えない宗教』論を展開したが、現在では、制度的な宗教──たとえば、福音派と政治運動のシオニズムの関係──も見えない宗教──たとえば、その極端な形態としてのカルトとして──も、同じように社会的な力として、猛威を振るっているという点を述べさせていただいた。 また、ヴェーバー以降の近代社会、特に、プロテスタンティズムの社会において、資本主義の精神の根拠である、救済概念の崩壊や究極の目的の喪失があっても、労働の存在論的な構造である目的定立は消滅しないので、人間に衣食住の生活過程が存在する以上、資本蓄積運動──言い換えれば、物象化プロセスと搾取プロセス──は、社会システムが資本主義から根本的に変わらない限り、続くのではないかと感じた。 ★ NAZA については、きょうは、時間的余裕がないので、詳しく展開できないが、以下の論点があると思った。 1.これは、イスラエル国内から起きた、大規模で世界的な影響力のある反乱であり、それは、今、始まったばかりであること。 反逆罪に問われた 事例として、ディモナの核施設で働いた技術者として、イスラエルの核兵器計画に関する秘密を英国の日曜紙『サンデー・タイムズ』(1986年10月5日)に暴露したモル...

一日一句(5938)

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  名月やなべてかの世はこともなし

一日一句(5937)

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  秋聲にセイレーンの聲ありしかな

京都日誌(465)

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  ■9月24日、木曜日、晴れ。 仕事は減ったはずなのに、なぜか増えている。いいような悪いような。 終日、仕事。 先日、 田畑さん から、 アントニオ・グラムシ の論文を送っていただいたので、少しづつ読んでいる。 グラムシは、 石塚先生 があまり重視していなかったので、これまで、注目してこなかった。 しかし、先日の田畑さんのレクチャーを聞いて、その考えを改めた。 ルカーチ自身が、同時代人のグラムシをどのように考えていたか、調べていて、ちょうど、私が、今取り組んでいるルカーチの『社会的存在の存在論に向けて』のテクストの趣旨を、ど真ん中で射貫く、ルカーチの、1969年の、亡くなる2年前の インタービュー を見つけた。 私は、この大作の日本語版を作成するにあたり、直感的に 労働論 から始めたが、その直感が正しかったことが裏付けられた。 また、このテクストが、 科学基礎論 でもあることも証明している。 インタビュアー「このことを、ご自身の哲学的発展にも当てはめますか。今日、1920年代のご自身の著作をどう評価していますか。それらは現在のお仕事とどのような関係にありますか」 ルカーチ「1920年代に、 コルシュ 、 グラムシ 、そして私は、それぞれ異なる方法で、 社会的必然性の問題 と、第二インターナショナルから受け継がれた 社会的必然性の機械論的解釈 に取り組もうとしました。 私達はこの問題を引き継ぎましたが、私達の誰も――おそらく 私達の中で最も優れていたグラムシでさえ――それを解決しませんでした 。私達は皆、誤った方向に進みました。 今日、当時の著作を、今もなお有効であるかのように復活させようとするのは、まったく間違っています。西側には、それらを『異端の古典』に祭り上げる傾向がありますが、今日の私達にそれは必要ありません。 1920年代は過ぎ去った時代です。私達が取り組むべきなのは、1960年代の哲学的問題です。私は今、『社会的存在の存在論に向けて』に取り組んでいます。これによって、 以前の私の著作、とりわけ『歴史と階級意識』で、まったく誤った形で提起されていた問題を解決したい と考えています。 私の新しい仕事の中心にあるのは、 必然性と自由 、あるいは私の言い方では、 目的論と因果性の関係という問題 です。伝統的に哲学者達は、この二つの極のどちらか一方を基礎...

一日一句(5936)

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  碗の翳卓にのこるや秋の夜

京都日誌(464)

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■9月23日、水曜日、曇り。 掃除のあと、身心調整をして、仕事をしようと思ったら、J:COMのシステム障害でネットに繋がらず、仕方がないので、今出川を東へ散歩に出た。 久しぶりに、御所を歩き、乾御門から入り、石薬師御門へ抜けて、清和御門の方へ南下。 梨木神社へ向かった。 途中、梨木神社の向かいの御所側の石垣に沿って、咲き乱れた紅い萩が何株も枝垂れているのに気が付いた(写真)。 萩の花は好きで、毎年、梨木神社に見に来ているが、この石垣の萩は、きょう初めて気が付いた。 今週末が、「萩まつり」ということで、まだ、梨木神社の萩は、満開ではなく6分咲きといったところだった。 白萩なども綺麗に咲いていた。 毎年、萩の枝に吊るされた俳句の短冊を見て、私も書きたいと思っていたが、どこに言って、書いたらいいのか、判らずにいた。 なにげなく、でっち羊羹を買ったとき、窓口にいた女性にその旨を話したら、あっさり、奥から何種類もの短冊を出してきてくれた。 短冊を1つ選び、そこからが大変であった。 俳句は、速い時には、1秒くらいで出てくるが、「俳句の推敲は一生」と言われるほど、実は奥が深い。 きょうは、一句なるのに、12、3分はかかったろうか。 大まかなイメージは、歩きながらすでにあっても、これである。 なんとか、書いて、一番奥のだれも吊るしていない枝にかけて、その写真をラインで妻に送ってから、受付に戻って、女性にも見せたところ、「いいところにかけましたね」と言ってくれた。 たしかに、そこは、梨木神社の秘所と言える場所なのである。 帰宅後、仕事に専念。今週末には、インタビュー部分を終わらせて、「訳者あとがき」に専念したい。 トランプ政権による UAPの第6回リリース や NAZA について、書きたいこともあるのだが、長くなるので、またの機会に。