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藤田武の歌(9)

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  桃の木に縛りえしものなにもなし 蒼き空映ゆ空の極みよ ■「桃の木に縛りえしものなにもなし」は、過去の助動「き」の連体形、「し」が用いられて、時制が過去になっている。 桃の木に、かつてなにかを縛ろうと試みたが、そのすべてが失敗したということになる。 寓話的な響きも感じられる。 その縛ろうとした主体は、作者個人というよりも、もっと一般的な、人類といったものではないかと思う。 7・7は、「蒼き空映ゆ空の極みよ」となり、桃の木を下から見あげている。 このとき、視線は蒼い空の果てに向かっているが、その果てへと、この桃の木もまた向かっている。 桃の木と空の極みは一体化している。 空の極みで桃の花は咲いており、桃の咲くところが空の果てなのである。 この歌で、桃は人間の手の届かないところに存在する。 この桃のような、身近にありながらも実は、人間の手に届かない存在は、たくさんある。 我々は、当たり前に存在しているがゆえに、そのことに普段、気が付かない。 詩歌は、このように歌うことで、逆説的に、桃の何か(桃の空とも言えるか)に触れているのではないだろうか。

藤田武の歌(8)

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  越えんとするおもいはふかく桃の木の はなびらのなかきらめく恥は ■藤田には、桃の歌が多い。櫻でも梅でもなく桃。 春の花の中で、桃の花は、梅と櫻の時期の中間にあたり、ともすれば、これらの個性的な花々の中で、紛れてしまう。また、寒紅梅なのか、緋桃なのか、分からないことも多い。 この歌は、一読したときの分かりやすさと裏腹に、よく分からない。一読、分からないが惹かれる。 それは、「越えんとするおもいはふかく」という措辞と、「はなびらのなかきらめく恥」の意表を突く取り合わせにある。 俳句なら、ここに、切れがあると見なすところだが、これは切れていない。 なぜなら、終わり方が、「恥は」だからである。 倒置法なのだ。 つまり、桃の花が「恥」を持っており、その桃の花に、「越えんとするおもい」があるということになる。 これは、己の想いを、作者の思い入れのある桃の花に託したものだろう。 花びらの中に、この恥はあると歌っている。 最も美しく最も儚く最も繊細なものの中にこそ、恥はあるという、この感性に私は惹かれた。 その恥は、「越えんとするおもい」とともにあるのだが、同時に、「きらめく恥」という措辞によって、この恥が否定されるだけのものではないことを、物語っている。

藤田武の歌(7)

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  日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に ふたたびは血噴け緋桃よ ■短歌と詩には、「予見性」というものがある。 この歌は、典型的で、「日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に」というのは、作者本人は、予言ではなく、実感として詠んでいることはよくわかる。 しかし、これは一種の滅びの予言だろう。 「ふたたびは血噴け緋桃よ」は、これが2回目なのである。すでに1回、緋桃は血噴くように咲いている。 緋桃は、自然の条件が整ったときに咲くが、これは、あたかも、緋桃に咲く意思があるかのように歌っている。 「ふたたびは」という言葉の使い方がそうさせている。 さらに、「血噴け緋桃よ」と命じていることで、緋桃の咲くとき、血が噴き出て飛び散るかのような幻想を、読者にいだかせる。 花が咲くのは、普通の自然現象であり、人間は、それを愛でるのが一般的であるが、藤田は、この花が咲くとき、その対価として血が噴き出すと詠んでいる。 そして、すべての緋桃がそうなのではなく、この緋桃がそうなのであろう。 なぜなら、それは2回目だからだ。 ただ、この緋桃は、具体的な存在を持つとも限らない。 藤田のこの歌は、戦後日本社会という時空をテーマ化しているように見えるからだ。

藤田武の歌(6)

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  きららなる魔ももつゆえに閉ざさるる睡りのゆめの野に母呼べり ■夢は閉ざされている。 言われてみればそうなのだが、言われてはっとする。 それは、夢が「きららなる魔」を持つからだという。 夢が開かれてゐたら、現実世界の秩序は成立しない。 だが、他方で、夢世界と現実世界は、交通している。 空想や想像、構想の世界は、無意識の夢の世界へと通じているし、夢の世界は、かなりの程度まで、現実世界の出来事を反映している。 夢の領域と現実の領域は、互いに、侵食しあって、それぞれの領域を変化させている面がある。 たとえば、この歌の「 母呼べり」が、 「妻呼べり」だったらどうか。このとき、作者は子どもから、いきなり大人になってしまう。 それは、過去の時間から現在の時間になってしまうことである。藤田は、「母」を呼ぶことで、歌の世界を夢の時間に閉じ込めたとも言える。 それは、現実が神話になっていくプロセスに極めて近い。

藤田武の歌(5)

  空よりの蛍よわよわしきひかりなげ悲惨を知らぬ朝に死せり    ■ 朝(あした)。 蛍と人間の違いとして、自他の悲惨を知って死ぬか、知らずに死ぬかと藤田は問いかける。 人間であっても、悲惨でありながら、自らは自らが悲惨であることを知らないことも多い。 自らの悲惨は知らなくとも、他者の悲惨は知っていることもある。 悲惨であるとわかっていても、そこに立ち止まることはできない。 日々の課題群との格闘がそれを許さない。 パスカルは、「神を知らぬ人間の悲惨」について語ったが、「悲惨」は、そうした「神学的なもの」ではなく、「社会的なもの」だろう。 労働を媒介に自然と物質代謝する人間の組織する社会関係が悲惨を生み出し、社会がそれを悲惨だと認識する。 多くの悲惨が人間にはあるが、その最たるものが戦争であり、1929年生まれの藤田の悲惨もそれが響いていると思う。