藤田武の歌(7)

 







日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に

ふたたびは血噴け緋桃よ








■短歌と詩には、「予見性」というものがある。

この歌は、典型的で、「日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に」というのは、作者本人は、予言ではなく、実感として詠んでいることはよくわかる。


しかし、これは一種の滅びの予言だろう。


「ふたたびは血噴け緋桃よ」は、これが2回目なのである。すでに1回、緋桃は血噴くように咲いている。

緋桃は、自然の条件が整ったときに咲くが、これは、あたかも、緋桃に咲く意思があるかのように歌っている。

「ふたたびは」という言葉の使い方がそうさせている。

さらに、「血噴け緋桃よ」と命じていることで、緋桃の咲くとき、血が噴き出て飛び散るかのような幻想を、読者にいだかせる。

花が咲くのは、普通の自然現象であり、人間は、それを愛でるのが一般的であるが、藤田は、この花が咲くとき、その対価として血が噴き出すと詠んでいる。

そして、すべての緋桃がそうなのではなく、この緋桃がそうなのであろう。

なぜなら、それは2回目だからだ。

ただ、この緋桃は、具体的な存在を持つとも限らない。

藤田のこの歌は、戦後日本社会という時空をテーマ化しているように見えるからだ。






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