往還日誌(293)

 








■4月26日、土曜日、晴れ。

きょうは、久しぶりにゆっくりできた。

午後から、近所の千本えんま堂へ歩いて行く。

普賢象櫻が満開をすぎ、しきりに散っている。

今が見ごろを迎えている。

普賢象櫻は、散ったあとがむしろ花見どきとなる。

紅白で、一花ごとに散り敷くように散るので、非常に美しいからである。

白い花は新しく、時間を経過すると紅くなる。

寺の尼さんは、あすから、5月1日より始まる「大念仏狂言」の準備に入ると言っていた。

帰宅後、電気圧力鍋の勉強を行う。

原理的には、若宮で使っているものと同じだが、付属のレシピを見ると、どの料理も若宮のものより時間がかかる。

1.5倍から、中には2倍以上かかる料理もある。

この点は誤算であった。

時短用に購入したからである。

それはそれとして。

深夜、虎豆を水に漬ける。

夜、NHKオンデマンドで『光る君へ』第22回を観る。


きのう、『週刊読書人』のオンラインイベントで、詩人の野村喜和夫さんと小説家の中村邦生さんの「はじまりのときめきと不安をめぐるアフォリズム」を視聴。

たいへん面白かった。

アフォリズムとしてすでに完成しているものばかりではなく、読み手、あるいは生きている人間の側で、それが置かれた文脈から独立させ、あるいは、アフォリズムの背景を想像することで、あるテクストを、「アフォリズムと成していく能動的プロセス」こそ重要というのが、お2人に共通する考えのように思えた。

そう考えると、社会学や哲学、経済学、あるいは精神医学などの「命題」も、そのように生成できるように思える。

実は、新しい理論の構築は、既存の理論の読み替えという作業が、どこかに必ず入るはずである。

それは、詩歌における本歌取りなどとも関連してくるだろう。

その意味では、テクストのアフォリズム化は、言葉と生命のもっとも深い関係を創造的に編みなおすことかもしれない。





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