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一般社会操作論に向けて

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一般社会操作論に向けて Toward the General Theory of Social Mnipulation     私は、一九六〇年生まれなので、日本の高度経済成長が始まった時期に生を享けた。八〇年代のバブルの時期に就職して、バブルが弾けた九〇年代に、心身を壊して企業を退職しフリーとなった。企業組織を離れて、生活を成り立たせるのは困難を極め、日本経済の「失われた十年」は、そのまま、私の「失われた三十年」となって、今に続いている。  フリーになって良かったことの一つは、企業という全体主義社会を離脱したことで、思索が自由に行えるようになったことだった。そして、フリーになった九〇年代の後半は、インターネットという情報通信技術が、普及した時期と重なった。それまでなら、一生、知り合うことのなかった人々とインターネットでつながり、人脈がなければ得られなかった情報も、インターネットに接続すれば、だれでも入手できる時代になった。社会運動もインターネットを手段とすれば、世界の人々と連帯することもできる。――薔薇色の時代が始まったようにも思えた。この時期、私は、『インターネット時代の表現の自由』(二〇〇四年)と『サイバープロテスト』(二〇〇九年)という二冊のインターネットと社会に関する翻訳書を上梓した。  しかし、まもなく、それは幻想であることがわかった。情報通信技術の時代は、「操作」の時代でもあることがわかってきたからだ。しかも、その「操作」は、この三〇年に特有の現象ではないことも、また、それが「情報操作」に限らないことも見えてきた。  そうした認識の深まりは、そもそも、なぜ、この世界では善が実現しないのか、という根本的な問いかけとも共振しながら、「社会操作論」を考えさせるに至った。  たとえば、それは、選んだ覚えのない利権まみれの知事や議員が、選挙のたびに当選してゆく、その虚しさはどこから生じるのか、という問題と関わっている。たとえば、それは、ウクライナ紛争やイスラエルのガザ侵攻が、なぜ、なかなか、和平に向かわないのか、という問題と関わっている。たとえば、それは、なぜ我々は、ウトロなどにおいて、在日朝鮮人を差別し、米国基地問題において、沖縄を差別するのか、逆に、日米合同委員会や日米地位協定など、複数の制度装置によって、なぜ我々は米国から差...