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京都日誌(486)

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  ■10月27日、火曜日、曇りのち晴れ。 ひとわたり掃除して、心身・身心調整を行い外出。 府市民税や国保、介護保険料など、一気に支払う。 これで、年度末までは、京都・埼玉の生活費と京都・埼玉の往復コストだけ、心配すればいい。 六本木の仕事も急激に減少しているので、年金だけでは、諸々のコストは賄えない。 来年から、何らかの職探しをしないといけなくなるかもしれない。 ただ、私には、直感的で経験的な信念があり、それは、 質のいい睡眠が取れて、心身・身心調整が成功し、晴れやかな気分を維持できれば、たいていの問題は解決できる という信念である。 今までも、数限りない試練があったが、振り返ってみれば、そのすべてにおいて、解決に導いている。 これは、 AIの時代と呼応する 、と私は直感している。 AIには、身体がない。 現時点では、人型ロボットはあるが、人間レベルの身体性を保有していない。 心身・身心調整というのは、初期仏教の瞑想などの修行も含み、 心の鍛錬 も含む。 こうした 心身・身心の全体的な修行 というのは、 AIとの関係を逆転させることなく 、つまり、 主人ではなく道具としてのAIとの創造的な関係 を創る上で、 ひとつのポイントになる と私は思っている。 AIは、今、特に数学の分野で、次々に新しい発見や証明を行い、プロの数学者を凌駕する業績を上げている一方で、大学や高校、中学において、 学生の知的能力の劣化 が急速に進行している。 もう数年すれば、 社会全体の知的能力の劣化 となって現れてくるだろう。 その社会では、AIに依存しないと、計算も推論も論理的な判断もできないAI世代が増えてくる。 道具が主人に逆転した社会は、すでに始まっている。 他方で、人間の知的能力を 所有のひとつ と考え、つまり、 知性を資本と見なすことで、AIと人間との切り離し が進んでいる。 学校のテストや研究や、小説・詩・俳句などのさまざまなコンクールにおいて、 人間オリジナルを、抽象化して価値づける方向性がそれである 。 それは、 知識の特許化と同じ発想 であり、 知識を囲い込んで個人所有し、資本化することで、資本の増殖に資するという、隠れた意図 がある。 近代社会・近代国家において、資本主義の枠組みの中で、人間知性も存在しているからだ。 このどちらにも組しない ために、人間の心身・身...

京都日誌(485)

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  ■10月25日、日曜日、曇り。 朝、家の体組成計で4ヶ月ぶりに測定。 データは、AIに記憶させた。 6月のデータと比較して、「良好」と言ってきた。 家庭用の体組成計なので、正確さはそれほどではないと思うが、心身・身心調整の方向性は、凡そこれでいいことが判る。 体内年齢は、前回と同じで、50歳だった。 午後、京都へ戻る。 東京も京都も雨は降っていゐなかった。 今回は、宅配便で本と衣類を送ったが、あとから荷物が増えて、4つも持って帰ったので、一定庵にたどり着くと、ぐったり疲れてしまった。 帰宅後、郵便物等の整理。 少し休んで、千本通りを南下。 すきやで牛皿・焼鯖定食を食べて──やけに牛肉の量が減ったが、気のせいか?──中央図書館へ2冊返却し、そのまま、堀川まで歩いて、大垣書店で『九条の大罪』14巻を購い、中立売通を今度は西進して、千本へ戻って、イズミヤで買い物して帰宅。 夜の散歩となった。 40年前の学生のときも、こうして夜──特に真冬の、今より遥かに寒かった京都の夜──よく出歩いていたことをふと思い出した。 歩きながら、田畑さんから届いた、AI革命関連の原稿執筆依頼の手紙を思い出し、AI革命や科学技術に関して、 明晰に対自化されていない文脈を、対自化することで、原理的なAI革命批判ができるかもしれない と思いついた。 それは、 ユダヤ ─ キリスト教の唯一神文明 という文脈である。 マルクスにしても、ルカーチにしても、ヘーゲルなどはあからさまにそうだが、キリスト教文明の文脈を前提に思索している。 それにアンチを唱えるにしても、それに唱和するにしても。 それが、その前提の文脈とセットで、日本へ輸入されることはなく、 社会科学あるいは自然科学として、唯一神文明の文脈の方は隠されてしまう、あるいは、議論の対象から疎外されてしまう 。 それがなくても、たとえば、労働論やイデオロギー論などとして、十分に完結した理論として、理解が可能であり──その理解においても、重要な論点は複数、存在している。 こうした労働論やイデオロギー論の現実形態は、良くも悪くも、近代社会や近代国家の編成原理に、制度や知識、教育などを通じて、深い影響を与えている。 科学は、目的定立を伴う労働実践において、目的達成手段の選択肢として発展してきたという原理的な説明が可能であり、それは、普遍的な説得力...

若宮日誌(484)

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  ■10月23日、金曜日。朝は晴れて光が強かったが、午後から曇りに。 まず、洗濯。自室の掃除、本の整理。 石塚先生のライブラリーで有用な本を数冊、発掘。 家のWi-Fiのルーターが古く、セキュリティに懸念が出てきたので、KDDIから新しいモデムとホームゲートウェイを取り寄せて設定。 その後、家の担当エリアの掃除。ごみ捨て。 妻が教えてくれた、 「Have I Been Pwned」 というサイトで検索したところ、私のgmailのアドレスのうち、私用で使っているアドレスが、7ヶ所で漏洩していることが判明した。 もっとも古い漏洩で2012年、もっとも新しい漏洩で2025年だった。 twitterやURL短縮サイトのbitly、Disk Unionなど、はっきりとわかる漏洩元もある一方、インターネット上の複数の悪意ある情報源で発見されたクレデンシャルスタッフィング(パスワードリスト攻撃)用のリストに載っていたケースも複数あった。 これで、ただちにメルアドが乗っ取られるわけではないが、同一パスワードはすべて自動生成に変更し、グーグルマネージャーに記憶させた。 また、アマゾンやグーグル、楽天など、AI利用型サイバー攻撃の対象になりやすいサイトは、パスキーにして、パスワードを廃棄することにした。 11月に予定していた公開講座での科学哲学の発表が来年に延期になったので、研究計画の練り直しを行う。 時間ができたので、却って好都合だが。 今後、12月に行う『社会操作の一般理論に向けて』の発表に集中していく。 夕方、久しぶりに運動へ。 帰りに国道16号沿いの古本市場で、能條純一『昭和天皇物語』第3巻と、長谷川法世『徒然草』を購う。 颱風30号が関東に接近しているので、予定を繰り上げて、日曜日に京都へ戻ることに。 ★ 10月9日付の 『アクシオス』 が、「AI業界の多くの内部関係者が『アクシオス』に対し、今後6〜12か月以内に重大な事件が発生すると考えていると語った」と報じている。 これは、9月下旬から10月にかけて、中国人ハッカー犯罪集団と見られる集団による韓国と日本の企業への金銭目的のデータの大量窃盗が続いているが、我々の企業がメルマガ配信に使用しているblastmailまで、水曜日からサイバー攻撃を受けていて、現在も、メルマガや号外の配信ができない。 現在のところ、民間レ...

若宮日誌(483)

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  ■10月20日、火曜日、雨になりそうな空模様。 この処、18時には仕事は止めて、21時にはPCもスマホも切っているので、かなり心身の調子がいい。 きょうは、夕方から、新宿でバフマン氏とアイデンティティ研究会の方向性について、きょうの朝に作成したメモを元に議論。 今後、「日本会議」と「参政党」に関する本を読みつつ、日本のアイデンティティの起源のひとつで、第2次大戦のイデオローグになった京都学派などの大東亜共栄圏の原型とも言える、1786年に刊行された林子平の『三国通覧図説』(朝鮮、琉球、蝦夷地=北海道・樺太・千島列島などを論じる)の社会空間認識や、江戸時代末期の会沢正志斎の1825年の『新論』における国体の概念との連続性と断絶性を検討していくことになる。 バフマン氏に、 嵯峨隆著『アジア主義全史』 という本を教わった。この本は、江戸時代中期から明治期に生まれたアジア主義の思想的起源をたどり、アジア諸国の連帯による西洋列強への抵抗という理念が、1930年代以降の日本の侵略政策とどのような関係を持ったのかを検討しており、たいへん興味深い。 著者は、もともとのアジア主義と、日本の侵略を正当化した「大東亜共栄圏」の思想を区別していると解説にはあるが、私見では、断絶性だけでなく、連続性もあるだろうと思う。無から思想が生まれることはないからだ。 私の作成したメモは、以下の通りである。 ★ 20261020 @ 新宿南口   第 1 回アイデンティティ研究会のためのメモ   1 .研究テーマ、あるいは問題意識 1.1  アイデンティティ(自己同一性)言説の歴史について 1.2  アイデンティティと近代の民族国家( nation-state )   ・国家統合機能としての民族アイデンティティ(ウクライナのネオナチ、イスラエル、日本)国家の危機のときに、アイデンティティが問題化する ・民族アイデンティティと民主主義の関係 例):ユダヤ人としてのアイデンティティを、民主主義の価値より上位に置く 「民主主義に対するユダヤ人アイデンティティの優位:国家のユダヤ人としてのアイデンティティは、その民主的な統治制度に優先する。この優先順位は、民主的価値観を損なうことになっても、ユダヤ人国家としてのイスラエルの存続を保障することを目的としている。国家のユダヤ...

若宮日誌(482)

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  ■10月17日、土曜日、快晴。 よく眠れた秋晴の朝は、この世の幸のひとつかもしれない。 朝8時になると、桶中のブラバンとテニス部が練習を始める。四十雀が啼いている。 朝、西口公園で、身心調整を行う。幼稚園の子どもたちのためのイベントやっていた。 ★ ブラジルの大統領選で、米国の福音派が増殖して、この勢力がルラ大統領の対抗馬で、第一回投票で勝った「ボルソナロ2.0」こと、極右のジャイル・ボルソナロ元大統領の息子、フラビオ・ボルソナロの躍進に貢献している。 福音派であるから、イスラエルとも関係が深い。 南米の宗教と言えば、カトリックの 「解放の神学」 が有名である。 貧困を 個人の問題 ではなく 社会構造の問題 として捉え、 経済的不平等 や 抑圧的制度 を批判する「解放の神学」は、一般に、1960年代後半から1980年代にかけて隆盛し、1990年代以降は衰退したと考えられている。 1971年、ペルーの神学者グスタボ・グティエレスが『解放の神学』(Teología de la liberación)を刊行して、「解放の神学」は一躍有名になる。 1980年3月24日、「解放の神学」を支持した中米、エルサルバドルのオスカル・アルヌルフォ・ロメロ大司教が、国家警察で構成された「死の部隊」によって、暗殺される。 経済主権を回復し貧困から抜け出そうとする南米民衆の感情的・宗教的・理論的な支柱となった「解放の神学」を、マルクス・レーニン主義の代理人と決めつけ、米国にとっての不利益と認識していた米国政権は、CIAを通じて、エルサルバドルの情報・治安機関を軍事訓練し、資金提供していた。 ロメロ大司教の暗殺の背後には、CIAがいた。 ブラジルの福音派──特に、踊る宗教として知られる福音派の中のペンテコステ派──は、自然増殖したのではなく、米国政権と意を同じくする米国福音派による大規模な信者獲得運動と、米国とイスラエルによる、「解放の神学」駆逐という、地政学的意図があったことは多くの識者の指摘するところである。 宗教人類学者、 デイヴィッド・ストール は、1990年の 著書 『Is Latin America Turning Protestant?』で、1985年にはラテンアメリカで米国を中心とする北米のプロテスタント宣教師が1万1196人活動していたことを明らかにしている。 ...

若宮日誌(481)

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  ■10月14日、水曜日、積雲ある晴れ。 夜、北風が強く吹く。木々の葉擦れの音が、潮騒のようにうねっている。 さいたまで借りていた文献10冊を、六本木の事務所へ宅配便で返却。 セブンイレブンで宅配便を出したときに、好物のアンドーナツが、揚げたてで売られているのに気が付いて、買ってみたが、いまひとつだった。残念。 家の担当箇所の掃除、ごみ捨てなど。 その後、Kさんのところまで、歩いていき、メガネの調整をお願いする。 神武天皇陵のことを話すと、驚いていた。 帰りに、ノジマでSDカードを購入。京都ヨドバシの半額で入手。 珈琲館で、 スイートポテト・ホットケーキ を食す。これは美味しかった。 ★ 夜、南方熊楠の南方曼荼羅関係の 論文 「南方熊楠の自然哲学とシステム認識」を読む。 南方曼荼羅というのは、知識論、科学基礎論、科学哲学とも言えると思うが、この論文は、かなり面白いもので、著者の千葉商科大学大学院の出口弘教授の関連論文を何本か、ダウンロードした。 出口さんの論文を一読した限り、熊楠の知識論は、存在論が弱いと感じた。 主に、知識を知識として扱っているように思えた。 知識は知識的存在である がゆえ、知識の組み込まれた 社会過程 や 生活過程 、 社会構造、としての知識 を考えるべきなのである。 社会哲学よりも自然哲学が、熊楠は前景に出ているように感じられるのである。 言い換えると、南方曼荼羅として結晶するべき「整理された知識」としての科学的知識は、自然的存在と社会的存在の断絶性への感度が弱くなる。 つまり、粘菌から動植物とその進化、人間とその精神、宗教、民族、社会へと生命を持つシステムを、 連続的に、一元的に 、捉えているように思える。 ここには、 目的定立を伴う労働 を行う 社会的存在である人間 と、 そういう選択の自由を伴った労働を行わない自然的存在との断絶性 への感度が後退している。 この断絶性と連続性は、 両面として 考える必要があるというのが、今の私の意見である。

京都日誌(480)

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  ■10月12日、月曜日、快晴。 終日、仕事。 若宮へ本と資料の宅配便を出す。 若宮では、主に、11月の公開講座で行う科学基礎論『目的論・因果論・偶然論──観測者問題について』の骨格をまとめたい。ヴィトゲンシュタインにヒントを得た、新しい基礎概念である 社会的実践ゲーム(Soziales Praxisspiel) を、土台に組み立ててみる。上手くいくかどうか、わからない。 岐阜大学大学院の下畑先生の『 一生パフォーマンスする脳 』が届いたので、ひとわたり読んだ。 この本は、認知症予防のための最新情報・対策が、やさしくコンパクトに書いてある。 いろいろ参考になったが、有酸素運動は、週に150分というのは、なかなか、困った。 1回30分でも週5日は、なかなか、きびしい。 普段の生活に取り込むのがベターなんだろう。 ★ 「おおくぼまちづくり館」 の資料によると、洞村の全村移転の話が、そもそも、出てきたのは、1912年に明治天皇が亡くなって、1914年(大正14)に、新天皇の即位の礼が行われることになった。 さらに、1915年に、新天皇の「神武陵行幸」が予定されると、洞村を全村移転せよ、という意見が出始める。 この意見の一部を、これから、2つ紹介するが、それは恐るべく歪んだものであり、 支配層の分断統治の幇間の極致 とも言え、気分が悪くなるが、これがリアルなのである。 後藤秀穂著『皇陵史稿』(1913年) 「(前略)驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。 知るや、知らずや、政府も人民も、平気な顔で澄ましている。 事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。 しかも、それが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山に爛れ、腐れ、そして、千万世(ちよろず)に白骨を残すのである。 どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して、神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りては言語道断なり。 聖跡図志には、この穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして今やほとんど倍数に達す。 こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸、おいおい霊山の全部を侵食する」。 この本は、今か...

京都日誌(472)

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  ■10月5日、月曜日、曇り。 9月30日から、左副鼻腔炎の治療を開始して、1週間。呼吸がだいぶ楽になった。 この感覚は、数十年ぶりで、世界の全体が違って感じられるほど。 身体性は、すべての基盤であり、ここの調整は最優先と思っている。 身体性は、AIにはない。 知識には、理論知と実践知があるが、言論の世界では、理論知が力を発揮する(それはそれで、非常に重要だが)。 そして、数学の未解決問題をAIが次々に解いているように、理論知は、AIの得意分野だが、実践知はそうではない。 実践知は、身体化され、暗黙知化されている。 なので、ちょうど、社会科学知が、自然科学知のように、劇的な効果が社会にとってないように見えるが、実は社会科学知は制度化されていたり常識化されて社会に大きな影響を及ぼしているように、実践知は、理論知と同じか、それ以上であり、今後は、この実践知の価値は、格段に高くなると私は思っている。 問題は恐らく、狭い時空の中で成立する場合が多い実践知を、どのように広い時空の理論知に接続するか、ということになるかもしれない。 ★ 先日、社会操作に対する免疫あるいは解毒剤として、植民地他者の聲が有効であり、謙虚に耳を傾けると、そこには、宝があるという 趣旨の話 を書いた。 社会操作には、それが行われる社会空間がある。 植民地他者の聲が有効なのは、主に、ひとつの民族国家、言い換えれば、一国家利権村の社会空間で行われる社会操作である。 ところが、この国家利権村は、 国際国家利権村という上位の連合体(序列があり主従がある) に組み込まれている。 そこでの社会操作は、より広い社会空間で行われているのである。 それは、経済関係で結びついているというよりも、 日米安保条約やNATOのような軍事同盟 で結びついている。 この社会空間で西側メディアやテレビ評論家などが行っている社会操作を解くには、それらが 悪魔化 している、ロシアや中国などの国家利権村の指導者達の聲を 虚心に聞く と効果がある。 これを、一般に、 ここでは 、プロパガンダに「洗脳された」と言う。 本当にそうだろうか? もちろん、その国家群がすべて善とは言わない。 そもそも、貧困を生み出す市場に加担して、腐敗していない国家は存在しない。 そこにおいて、抑圧されている人々も存在する。 だが、我々は、もっと プロパガン...

京都日誌(468)

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  ■9月30日、水曜日、曇り。 午前中、府立医大を受診。 予約を入れてから、受診まで、一ヶ月かかった。 CTを撮り、鼻内視鏡を、左の外鼻孔から鼻腔へ入れた。 慢性の副鼻腔炎であることがはっきりした。 これと、歯痛にはおそらく因果関係がある。 頬の下半分が、CT画像では白くなっており、そのすぐ下は左上奥歯になる。 二段階治療となり、初めに、2種類の抗菌薬で殺菌し、膿を排出する。 薬剤の効果がなければ、内視鏡手術になる。 ★ 帰宅後は、きょうが締め切りの書評原稿を書き上げる。 6000字では、重要なことはあまり書けない。 残念だが、字数制限は致し方がない。 「シオニズムの現在形、あるいは社会操作としてのイスラエル・ロビー」 という題で、ジョン・ミアシャイマー&スティーヴン・ウォルトの『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』を取り上げた。 2007年の古い本だが、イスラエル・ロビー研究の原点であり、今もなお多くの示唆を与えてくれる。 この書評原稿のため、比較対象として最新刊の Israel's Lobby: America in the Grip of a Foreign Power( Eli Clifton , Ian Lustick ) を発注していたが、どういうわけか、9月8日に届くはずが届かず、使用できなかった。 いずれにしても、今回の作業で、 社会操作としてのイスラエル・ロビー という視点を得ることができた。 そして、それは、 社会操作において、個人と組織のゆるい連合体である、イスラエル・ロビー型というものがありえる ことを、示している。 ゆるい連合体 というあり方において、イスラエル・ロビーは、 国家利権村 と似ている。 国家利権村 にとって、「親イスラエルに米国の外交政策を方向づける」というような、イスラエル・ロビーの 明確な統一目的 に相当するものは、 日米合同委員会や日米地位協定、指揮権の統一化などを含む、社会システムとしての 日米安保条約の枠内での、所与の社会システムのあり方(sosein)の維持 だろう。そのための改革もある。 なので、米国の外交政策の根本的な批判は、パレスチナやイラン、ウクライナを含めて、 国家利権村の代表的な構成要素、コーポレート・メディア にはできない。

京都日誌(467)

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  ■9月27日、日曜日、曇り、午後、秋雨。 終日、仕事。 3つ重なって、なかなか、険しい日々に。 9月の諸問題を解決して、気分良く、10月へ移りたい。 友人の作家、 黄英治 さんに紹介いただいた本が2冊到着。 宮沢剛著 『他者の声を聴く』 と、目取真俊著 『地を這う声のために』 。 この頃、 植民地他者の聲を聴くこと が、 社会操作の呪縛を解く上で有効な手段 になると、はっきり気づいた。 今までも、うすうすはわかっていたのだが、自分で 一般社会操作論 を考えるようになって、その確信は、より強くなった。 社会操作は、個人には社会化されており、社会には制度化されることで実装化されている。 一番やっかいなのは、それが、 情動と強い結びつきがある 、ということである。 我々は普通に生きているだけで、セイレーンの聲にすでに絡めとられているのである。 社会操作は、それなしでは、社会、あるいは国家は成立しない、という意味で、現存の社会や現存の国家の再生産に必須の条件となっている。 この意味で、社会操作を問題にするということは、現存とは異なる、 よりよい社会 を問題にするということであり、それは、とりもなおさず、 民衆の歴史への参画を問題にする ということなのである。 最近、グラムシを読んでいて、こんな風に考えるようになった。 田畑さんは、グラムシの研究者は、ルカーチほどではないが、激減していると述べている。 私は、これを聴いて、グラムシの重要性を確信した。 学会のポスト市場で人気のない人ほど、重要だからである。 宮沢さんは、『他者の聲を聴く』の「はじめに」でこう書いている。 「戦後の日本政府は、独立(1952)と同時に、旧植民地出身者から国籍を剥奪し、日本国民=日本民族=日本人という同質性を強調した国民像を構築した。 いわば<同>の範囲を一気に収縮させたのだが、これは、旧植民地出身者の 不可視化あるいは例外化 をもたらし、”日本国民は日本人だけ(日本民族)だけ”という同質な国民像と、”この社会に暮らしているのは日本人だけ”という均質な社会像を、この国に暮らす人々の多くに内面化させる契機となった。 その結果、社会生活の隅々まで日本人であることが当然視される状況が生じ、在日朝鮮人にとっては同化(日本人化)の圧力となっただろう」(同書、p.5)。 近代のnation-stat...

京都日誌(466)

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  ■9月26日、土曜日、秋雨。 朝、身心調整を行い、所用で、雨の中を外出。用を終えて図書館で、本を返し、即、予約を入れる。 ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』は、古本でも高くて買えない。早急に、母校、同志社と関西学院の図書館利用カードを作成しないと。 帰宅後、ニコの仕事に取り組む。 夕方から、社会学者の 堀田泉 さんのウェビナー「マックス・ヴェーバーの都市理論」( 大阪労働学校・アソシエ )に参加。 堀田さんや、会の主催者、 斎藤日出治 さんと、少し議論する。 近代を人間の行為面、あるいはそれが結晶化した 制度面から定義するとしたら、 計算可能性 や 合理性の普遍化 ということができるという指摘を堀田さんよりいただく。 斎藤さんからは、究極の目的が喪失し、来世で救済される意識が薄らぐことで、つまり、永遠の意識が消えていくことで、現世内を充実させる方向へと、時間意識が変化しているというお話があった。 それは『加速する社会――近代における時間構造の変容』で、ドイツの社会学者 ハルトムート・ローザ が展開している論点であると。 私の方からは、宗教社会学者の トーマス・ルックマン が、1960年代に、『見えない宗教』論を展開したが、現在では、制度的な宗教──たとえば、福音派と政治運動のシオニズムの関係──も見えない宗教──たとえば、その極端な形態としてのカルトとして──も、同じように社会的な力として、猛威を振るっているという点を述べさせていただいた。 また、ヴェーバー以降の近代社会、特に、プロテスタンティズムの社会において、資本主義の精神の根拠である、救済概念の崩壊や究極の目的の喪失があっても、労働の存在論的な構造である目的定立は消滅しないので、人間に衣食住の生活過程が存在する以上、資本蓄積運動──言い換えれば、物象化プロセスと搾取プロセス──は、社会システムが資本主義から根本的に変わらない限り、続くのではないかと感じた。 ★ NAZA については、きょうは、時間的余裕がないので、詳しく展開できないが、以下の論点があると思った。 1.これは、イスラエル国内から起きた、大規模で世界的な影響力のある反乱であり、それは、今、始まったばかりであること。 反逆罪に問われた 事例として、ディモナの核施設で働いた技術者として、イスラエルの核兵器計画に関する秘密を英国の日...

京都日誌(463)

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  ■9月21日、月曜日。曇り。 朝から、即、仕事。 昼過ぎに、一段落させて、京都大学へ向かう。 神戸・ユダヤ文化研究会の 第2回文化講座 「今ここにある未来――現代イスラエル/パレスチナ文学における近未来SF小説の系譜」に参加。 パレスチナという土地で生まれたSFの系譜の圧倒的なリアリティに非常に驚いた。 イスラエルの作家、イシャイ・サリドの『第三神殿』と、イスラエルの中のパレスチナ人作家(ヘブライ語で創作)のサイイド・カシューアの『朝が来た』を中心に、国立民族学博物館の赤尾光春氏と、東京外大の細田和江氏のお二方からレクチャーがあった。 ユダヤ人のアイデンティティが、19世紀のシオニズム運動を通じて、時間的なもの──誰の子か、という家系・血筋──から、空間的なもの──占有された土地へと変質するという、赤尾光春さんの、懇親会の「鳥貴族」まで歩きながら、うかがったお話は、とても印象的だった。 以下は、 赤尾光春さんや 細田和江さん、細見和之さん、ユダヤ史研究者さんから聞いた話に、私の理解を入れて、まとめたものである。 第二神殿が破壊され、ディアスポラによって、世界に散ったユダヤ人は、ラビによるトーラーの自由な解釈体系であるタルムードを中心として学ぶという、シナゴーグでの信仰のあり方が形成されてゆく。この意味では、持ち運びのできるテクスト自体が、ユダヤ人のアイデンティティにもなった。 同時に、土地を失ったユダヤ人は、そのアイデンティティを、ほかの民族のように土地(空間)ではなく、家系(時間)に求めるようになる。 神殿が破壊されディアスポラに至ったために、信仰とアイデンティティのあり方が、このように、変質する。 この意味で、ディアスポラ以降のユダヤ民族は、 時間と、(タルムードに書かれた)ヘブライ語 をアイデンティの基礎にした民族と言えるだろうか。 第二神殿の破壊以前のユダヤ人の信仰のあり方は、動物犠牲を伴う公的祭儀が信仰の中核だったようである。律法(トーラー)に反した場合、神殿に動物の生贄を捧げていたという。 祭儀を直接執行したのは、アロンの子孫とされた祭司達だった。 第二神殿の時代は、600年もあった。 そして、現実の問題として、破壊された第二神殿(70年に破壊、第一神殿の破壊は紀元前586年)の再建が政治目標として、テーマ化するのが、1967年の六日間戦争の...

京都日誌(462)

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  ■9月19日、土曜日、曇り。 午前中、身心調整。 その後、西宮へ。 田畑さんの 「マルクス講座」第8回 。 今回もかなり面白く、また、勉強になった。 田畑さんの力点は、社会変革の運動論としての思想にある。 その思想を、マルクスの生活過程論の全体構成の中に位置づけている点が、21世紀のマルクス読解としての特徴になっている。依拠するマルクスのテクストは、『ドイツイデオロギー』「5.断片」(1845/46)や『経済学批判序言』(1859)、『資本論』の物象化論・転倒論である。 この点は、20世紀のマルクスレーニン主義のマルクス読解とは一線を画している。スターリンは、人と人との関係をテーマ化しなかった。 今でも、マルクスと言えば、旧ソ連のマルクス読解しか念頭になく、そのため、マルクスに悪感情を持っているケースは存在する。 思想と生活過程論は、どのようにリンクしているかというと、『ドイツイデオロギー』では、次のように述べている。 「意識とは意識的存在以外の何物でもなく、人間達の存在とは彼らの現実的な生活過程のことなのだ」。 ここで言う意識が、田畑さんの言う、思想にあたる(私が田畑さんに「思想」という言葉の使い方を確認したところ、 言語を媒介にした思考されたもの を思想と言っていることがわかった)。 さらに、『経済学批判序言』では、具体的にこう述べている。 「物質的生活(衣食住)の生産の様式が、社会的生活過程、政治的生活過程、精神的生活過程一般を条件づける」。 ここで言う、精神的生活過程が、思想的営為のことになる。 マルクスレーニン主義では、たとえば、政治的生活過程論は、国家論としてのみ議論されてきた。現実には、政治的行為が構造化されて国家が生じるのに、そのプロセスが抜け落ちるので、個人の生活過程(人生)と乖離した地点で議論されてしまう。 そして、資本論(第1巻、第9章「剰余価値の率と総量」の末尾)は、生産手段の転倒をこう述べている。 「生産手段を用いるのは、もはや労働者ではなく、労働者を用いるのが、生産手段なのである。生産手段は、労働者の生産活動の素材的要素として費消される代わりに、生産手段が労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として費消するのであり、資本の生活過程とは単に自己自身を価値増殖する価値としてのその運動にある」。 このような転倒が今、もっとも起きている...