往還日誌(326)
■9月7日、日曜日、晴れ。
午前中、ヘーゲルを原典で読む会。
上海協力機構(SCO)は、創設目的はテロ対策だったが、現在では、米国との「相互承認」を主張する機関へと発展している、と私は見ている。
米国は、世界を同盟国と仮想敵国に恣意的に分類して、その秩序を自分の覇権の維持強化に利用してきている。
この問題は、いまだ、自己意識に達していない未熟な覇権国=米国と、軍事・経済力をつけて自己意識が発展し、それを、米国との「相互承認の問題」へと転化し始めた、中国・インド・ロシアとの関係として、読み解くことができる。
他者の自己意識を承認できない覇権国は、未熟な自己意識しか持てない。
このいびつな関係が持続し得たのは、市場の力が承認に代わって存在したからだろう。
インドは、中国に売るものはないが、中国はインドに売るものはある。
つまり、インドには、米国市場が今も必要で、米国もインド市場が必要である。
この相互関係が、承認という精神的な問題を後退させていたが、現段階では、この関係が逆転している。
このように、ヘーゲルの相互承認論には、時代制約的に、市場の問題が欠けていることがわかるが、それでも、条件によっては、上記のように、問題化する。
この理論装置のアクチュアリティは重要だと今日も思った。
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きょうは、午後から、西宮へ。季報『唯物論研究』・大阪哲学学校共催の「夏季セミナー」に出る。講師は、白井聡さん。
テーマは、敗戦・戦後80年:日本の総括、世界の総括、そして<我々>の総括。
戦後80年とは何だったのか、という点を、たいへん、わかりやすく整理された話で、いろいろ参考になった。現時点は、格差を残したまま、社会の存続可能性危機という段階にあるというのが、白井さんの主張で、これは少子高齢化を踏まえると、たいへん説得力のある話で、参政党といった右派ポピュリズム台頭の背景をなしている。
今後、世界は、リバタリアニズムか、D.クレーバーの言う、基底的コミュニズムの方向に向かうのではないかという仮説を提示されている。
さらに、現在、米国の相互関税問題を引き金として、「国家主権」を主張するという新しい現象が、インド、中国、ロシアなどで出ているが、この2点を質問した。
白井さんの答えで興味深いなと思ったのは、AIが代替するのは、ホワイトカラーでありブルーカラー労働はAIに置き換えられない、という議論だった。
たしかに、引っ越し業や工事現場などの労働は、代替不可能に見える。その背景には、教育システムによる3Kなどの価値づけがあるという指摘もあった。
私が思うに、この背景には、1990年代から、先進国で急激に始まった社会の知識社会化という現象があり、これと切り離せないだろうと思う。
このベクトル上に、AIは出現してきており、社会の急激な知識社会化が、教育システムに影響を与えていると思える。おそらくは、今後、ブルーカラー労働は、AI搭載のヒト型ロボットの進化が対応していくのではないだろうか。
トランプ大統領は、製造業を国内へ戻すことを宣言して、この知識社会化に一人で抵抗しているが、それは、無駄な抵抗だろう。
移民に関しては、移民が凶悪犯罪を犯した、という事実、あるいは、クルド人が犯罪グループを形成した、という事実を、事実として、議論できない風潮があると、白井さんは指摘している。
この点は全く同感で、これを差別だと言って、あるいは差別を助長すると言って、問題解決に向けた議論を封じるのは、民主主義の民主化にとっていいことではない。
こうした「理念の物象化」(移民はどんどん受け入れるべき)とそれに付随した経済的利権構造(経団連・自民党による少子高齢化政策の失敗と移民労働力による補完)の存在が、世界の「リベラル」が今、エリートとして固定化し、市民感情から乖離して、信用をなくしていることの一因になっている。
少子高齢化資本主義が、そもそも、移民労働力を必要としてきた点も含めて、さらに、犯罪の背景構造にまで踏み込んだ、移民問題の解決の議論に、常に開かれておくべきなんだろう。
他方、移民は消費者でもあり、すでに、市場として包摂されており、追い返せばいいというトランプ大統領の政策は、受け狙いの集票効果を期待したポピュリズムであり、今後、米国経済への影響がどのようにでてくるのか、注目される。
講演後の交流会で、少し、白井さんと話した。私の、日米安保条約は条約ではなく、文化・政治・経済を含む一つの社会システムであり、それは「社会操作」として機能しているという話に、まさにそのとおりだという賛意を得た。
また、リアルで始めて、80歳になられた哲学者で季報『唯物論研究』編集長の田畑稔先生にお会いした。『一般社会操作論』の原稿を、次々号で書くこととなった。1万3000字なので、たぶん、理論的な序論になるだろうけれども。
いずれにしても、労働運動をやっている人や、部落解放運動をしている人、同世代の教員の人、大学の先生、などなど、多彩な人物が集まっていることがわかった。
私は、自分が大学に属していないからでもあるが、こうした日本の市民社会の力に賭けてみてもいいと思っている。つまり、こういう場での本音の議論こそが、自分のオリジナルの社会哲学を育む土壌になるのだということを。
きょうは、元気をもらった。