老化と記憶について(季報『唯物論研究』176号)
老化と記憶について 尾内達也 他界という雨が樹木に染み込み それを養分に私達の中で記憶が萌芽していく。 その気配を思い出し、語り継ぐたびに、風のように森を揺らす。 今世は常に生命の産声が響き続けている。 石原加弥子(二〇二六年) 一 1. はじめに 本稿は、自明と思われる「老化」と「記憶」と、そして、この二つの関係について改めて検討することを通じて、本特集のテーマである「老いの文化を作る」ことに資することを目的としている。その際、考察対象を個人レベルと社会レベルの二つの次元に分けて考察する。 言い換えると、 個人としての老化とその記憶 、 社会としての老化とその記憶 という問題圏を扱う。 2. 記憶とはなにか? ニーチェ(一八四四─一九〇〇)は、一八八七年十一月に出版された『道徳の系譜学に向けて』の第二論考「『負い目』、『やましい良心』および関連事項」の中で、記憶の問題を扱っている。 冒頭、ニーチェは、約束と健忘を対比しながら、こう論じる。 「 約束することが許される 動物を育成すること──これがまさに人間に関して自然がみずからに課した、かの逆説的な課題ではないだろうか……。この問題はかなりの程度解決されているが、そのことは、課題に逆向きに働く力である 健忘 の力を十分に尊重する術を心得ている人からすれば、それだけいっそう驚くべきことに思えるに違いない。健忘とは、浅薄な者たちが信じているように、単なる〈惰性力〉なのではない。むしろ、能動的な、最高に厳密な意味で積極的な阻止能力なのであって、この能力のおかげで、われわれが体験し、経験し、内に取り入れるものは、そもそも消化される状態(「魂内同化」と呼んでよいだろう)にある時には、われわれの身体の栄養摂取、いわゆる「体内同化」が行われる幾重にもわたり加工過程全体と同じように、少しも意識に入ってこないのである。意識の扉や窓をしばし閉じること、有用な身体器官の構成するわれわれの皮下世界が互いに協力したり敵対したりしながら繰り広げる騒音や戦いに煩わされずにおかれること、意識の少...