往還日誌(370)
■1月2日、朝は雲の多い晴れ、午后から雲行きが怪しくなり、雨。その雨は、5時半ごろから雪になった。
朝から、『社会操作の一般理論に向けて』の原稿を書く。
私の趣旨は、理論的な研究で完結せずに、経験的な研究とリンクさせるために、定式化と命題化を図ることにある。
きょうは、社会操作のうちの情報操作が、結局は時間と空間の操作に帰着し、それは、全体と部分の関係性を操作することと定式化できることを示した。
午后、年賀状を買いに出る。カフェ・ド・クリエで『荀子』を読む。
夕方から、また、仕事。
夜、鮟鱇鍋を作る。
食後、NHKスペシャル『神の数式』(第1回)を視聴。2013年放映。
面白かった。
20世紀以降の物理学は、物理学の数式によって、あらゆる自然現象が説明できるはずだという強い信念に導かれてきた。
その導きの観念は、対称性という美だった。この美は、見る人の視点が変っても、元々の性質が変わらない、ということを意味する。
この対称性を回転対称性、並進対称性、ローレンツ対称性、ゲージ対称性、非可換ゲージ対称性と拡大してきて、そのたびに、問題が生じ、その問題を解決することで、物理学の体系を拡張してきている。
ここにある、物理学の盲点は、「見る人の視点が変っても」というところにある。
つまり、人間種が前提の見方なのである。
ミツバチや蛸などの人間以外の種や、人間以外の種である高度生命体の見方は、最初から排除されている。
ここで、人間種以外の高度生命体とは、環世界(Umwelt)の分解能が高く、時間・空間・因果の切り取り方が人間と根本的に異なり、人間には到達できない認識様式をもつ生命体をイメージしている。
知識は、種の環世界によって条件づけられるため、人間の種内の普遍性は成立するが、それを普遍性と物理学は取り違える。
この取り違えが、現代の科学技術文明が、自然と人間、つまり、存在全体に対して暴力性を帯びうる根源となっていると私は考えている。
ここには、学問の、あるいは科学の、根深い、無意識の人間中心主義がある。
番組は、対称性の美から導かれた数式と、実験結果がほぼ一致することを、物理学の勝利のように紹介しているが、T-N-S Theoryから見れば、それは、同一の環世界に媒介されているのだから、むしろ当然のことである。
このとき、説明がつかない現象や矛盾は、学の体系や学の規則を拡張するための梃子となる。
知識とは、環世界に条件づけられたゲームだからである。