京都日誌(428)
■7月18日、土曜日、積雲ある晴れ、午後3時から、今季初めての夕立が続く。
構造操作論のスケッチを書きながら、終日、ニコの仕事。
午後、妻より携帯に電話。普段は、ラインで連絡しており、緊急な時以外はかけてこないので、どうしたの、と言うと、私の実家が、大雨で床上浸水しているという。母90歳が心配だから、様子を聴いてという。
これは、まったく知らなくて、驚いて、母と弟に電話やラインで連絡。
きのうの夜、これまで経験したことのないような雨の降り方だったようである。夜間に線状降水帯が出来上がったようだ。
桐生に近い菅塩地区の山際の地域が床上浸水したという。
また、地元で呑龍様として親しまれている、浄土宗の大光院のある金山の山際が、やはり土砂崩れを起こしたという。
これらの出水の状態は、私はこれまで聞いたことがない。
実家近くの一級河川の蛇側の水位を調べると、今朝の7時20分時点で、3.12メートルもあった。15時20分時点で、1.83メートルまで下がっていた。
妻が言うには、8月は、太平洋高気圧が弱まって、豪雨が多くなるという。
京都のおいても、2026年6月26日の、颱風7号「メーカラー」、颱風8号「ヒーゴス」の影響で梅雨前線が活発化して、賀茂川・鴨川、高野川の水位が氾濫危険水位まで、大きく上がった。
線状降水帯や颱風に対して、どのように、防災するか、これまで以上に、災害を具体的に考えないといけないようだ。
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構造操作は、何らかの社会的構造体を作り上げることで、人々を特定ベクトルを持った行動に駆り立てることを、一応は、意味する。
この構造操作で、私が考えているのは、たとえば、天皇制であり、靖国神社であり、日米安保条約であり、マーケットであり、米国のドル本位制であり──いぶかしく思う人もいると思うが、代議制民主主義制度、端的言えば、多数決による意思決定システムである。
ユクスキュルは、動物の「本能」というミステリアスで万能の概念の代わりに、「自然設計」という考え方を導入している。自然の側にあらかじめ書き込まれた設計図に、動物は従う。ここに逸脱や拒否はない。
私は、この「自然設計」で規定された「社会設計」という概念で、この「構造操作」を明晰に定義できないだろうかと思っている。
社会の時空間に、あらかじめ書き込まれた設計図で人々が行動を制御している、というイメージである。
この社会設計は、時代とともに、あるいは空間、あるいは文明とともに、変化する。そして、社会設計には、設計図を書き込んだ主体が存在する。
他方、自然設計は、系統発生によって形成され、個体発生によって実現され、個体の活動によって、環世界として作動する。
したがって、自然設計を書いた主体は、系統発生、あるいは変化=時間といった抽象的なものになる。
言い換えると、自然設計には目的定立的な行動は一切認められないが、社会設計には人間の目的定立的な行動が隠されている。
そして、自然設計と同じように社会設計は、普段は不可視化されている。
これを可視化するものこそ、社会紛争である。
社会紛争は、ネガティブで、望ましからぬもの、というだけではなく、構造操作の何が問題かを可視化する重要な機能がある。
社会紛争には、訴訟や社会運動、抗議活動などが含まれる。
社会紛争は、けっして、ゼロにはならない。
シカゴ大学のジョン・ミアシャイマー名誉教授と、ハーヴァード大学のスティーブン・ウォルト教授が、2007年に名著『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』を書いたとき、冒頭に掲げたエピグラフは、バートランド・ラッセルの言葉だった。
あらゆる事柄において、長きにわたって自明と思われてきた事柄に、折に触れて、疑問符をつけることは健全なことである。
これがラッセルの言葉である。
紛争は、長きにわたって自明と思われてきた事柄に、疑問符をつけ、それを社会的に可視化する。
そうしたことを含んだ定義を試行錯誤している。