■7月3日、金曜日、ようやく青空が見えた。
午後から、郵便局、銀行、鶴屋吉信へ。
母がお世話になっている親戚と、独居の従弟、新盆の南伊豆のT家へお菓子を送る。
その後、千本通で買い物。途中、インド・ネパール料理のゴルカ・ダーバーでランチ。安くて美味しかった。
この店、最初は、北野商店街にあったものが、千本今出川に越したようである。
引越しして味が落ちた、という、ダルバート(ネパールの定食)を頼んだ人の感想もある。
カレーとナンは美味しかったが、2時半に入店したとき、ガラガラだった。3時前に、一組入店したが、インド系の大家族だった。
私がちょっと、関心を持ったのは、
「店名の『ゴルカダーバー』ですが、ゴルカはネパール人の傭兵部隊『グルカ』そのものから付けたそうで、何でも、店のオーナーのお父さんが、グルカ兵だったそうです」という情報。
調べてみると、「ゴルカ(Gorkha)」は、ネパール中部のゴルカ地方、あるいはそこを出身地とすることで知られるグルカ兵(Gurkha)に由来。英語では Gorkha と Gurkha は同じ語の表記違いとなる。
もともとは、ネパールのゴルカ王国・ゴルカ地方を指す地名だったが、英国人がネパール兵を「Gurkha(グルカ)」と呼ぶようになり、世界的にはその名称で知られるようになった。
グルカ兵は、1815年以降、主として英国軍やインド軍に採用されてきたネパール人兵士で、その勇敢さで世界的に知られている。現在でも英国陸軍やインド陸軍にはグルカ部隊が存在する。
「ダーバー(Durbar)」は、ネパール語・ヒンディー語で「宮殿」「王宮」「宮廷」を意味する。したがって、「ゴルカ・ダーバー」は直訳すれば「ゴルカ宮殿」「ゴルカ王宮」という意味になる。
英国・ネパール戦争(1814~1816年)で、ネパールはイギリスの東インド会社と戦い、ネパールは領土の一部を失ったが、完全に征服されることはなかった。
しかし、1816年のスガウリ条約によって、ネパールは広い領土を割譲した。英国の駐在官(レジデント)を受け入れた。外交面では英国の強い影響を受けるようになったものの、国家としての独立は維持された。英国はこの戦争でネパール兵の勇敢さを高く評価し、戦後まもなくネパール人を自軍に採用し始めた。これが今日まで続くグルカ兵(Gurkhas)起源となる。
現在でも英国陸軍にはネパール国籍のグルカ兵が勤務しており、退役後は英国への定住が認められる制度もあるという。
ネパールの歴史は、インドが、1858年から1947年まで英国の植民地(英領インド)だった悲劇と比べて、一種、痛快な面がある。
欧州諸国は、イエスの隣人愛を説く一方で、強烈な人種差別を平然と行い──啓蒙を説くカントや理性を重視するへ―ゲルも、この点についてはまったく同罪で、欧州キリスト教文明の差別構造に無自覚に加担していた──アフリカ大陸に対しては、400~500年間も植民地経営で関与し、現在でも、フランスを中心として、通貨制度などを通じて、直接間接に支配を及ぼしている。
この植民地主義は、1948年のイスラエル建国以来、イスラエルにおいて、「大イスラエル構想」という狂気の計画──創世記などを根拠としたユダヤ人(アブラハム)へのナイル川からユーフラテス川までの土地の神からの贈与という一面的で独善的な解釈という宗教的な要素(アブラハムは、ユダヤ人の祖であるだけでなく、アラブ人の祖でもあるという旧約聖書の記述は都合よくスルーしている)と、安全保障上の理由からの領土拡大という地政学的な要素として、現在でも、反復され続けている。
ここには、キリスト教とまったく同じ、ユダヤ教の選民思想があり、多民族をユダヤ民族に奉仕するものとして位置付けている。これは、極右のイスラエル支配層だけではなく、イスラエルの一般市民レベルで、そうした意識が存在する。
1996年のネタニヤフ首相の就任以降は、米国のネオコン8人(ほとんどユダヤ系)の作成による「クリーン・ブレーク」戦略によって、米軍をイスラエルによる周辺国家侵略の軍事的な手段としてきた。
日本国家は、かつて、欧州の植民地主義の模倣をして大陸に進出し、今は、このダブル宗主国に操られて、イスラエル米国の植民地主義に深く関与している。
★
夕方から、ニコの仕事に入る。
宮原先生にご推薦いただき、『ソシオロジ』の入会と、日本社会学会に再入会した。
今年後半から、論文投稿の準備を開始する予定。
当面、ここでは、多元的時空論であるT-N-S Theoryをテキスト化していくことを考えている。
結局、T-N-S Theoryというのは、人類学や民俗学が、他者の文化と社会を全体的に理解することを目的にしているように、それを人間としての他者だけでなく、自然的存在(宇宙的存在も含めて)にまで拡張する試みということができる。
当面、ユクスキュルを理論的源泉の一つとするbiosemioticsと、ルカーチの社会基礎理論を統合することを、思索課題として設定している。
少し、時間はかかるかもしれないが、発表媒体が確保できたので、楽しみながらやりたい。
★
今、ブームの観を呈している、中村天風を知ったのはかなり古く、40年前、某企業の企画事業部に勤務していた時、新しく来たやる気にあふれた本部長が、しきりに天風に言及し、事業部の部課長たちに天風本を勧めていたことからである。
このバブル期に一度、天風はブームになっており、本屋には平積されていたのを覚えている。
天風は、ビジネスマンに非常に人気があった。
その秘密は、天風の説く、心の積極性にあったと思う。
ビジネスの現場では、新しいことに果敢に挑戦することが常に求められ、それが天風哲学とマッチしたのだろう。
だが、心の積極性や果敢さは、若い頃よりも、今の方が、自分の中にあるように感じる。
それは、天風に学んだというより、職業経験、人生経験の全般を通じて、学んだのだと思う。
1冊、天風本は入手した記憶はあるが、今は、手元にない。
なぜ、今になって読む気になったかというと、ファンである大谷翔平選手が、天風を愛読していると聞いたからである。
『運命を拓く』という本を、今読むと、共感するところも、違和感をもつところも、反発するところもある。
天風は、無神論者である。
神仏に凭れるメンタリティーを好まない。
「神とか仏とかいうのは、人間が便宜上、付けた名前だから、このようなものに捉われてはいけない」(『同書』p.34)。
「当てにならないものを当てにして、救われようとか、助かろうとか、極めて、さもしい、気の弱い、哀れな、依頼心の強い気持ちで、それを信仰と名づけている」(『同書』p.36)。
心だに 誠の道に かないなば
祈らずとても 神や守らん
という古歌を引用して、天風は、自己本位の自分の生命や、自分の運命の安全ばかりを願う信仰を斥けている。
それはそうなんだが、
祈りは、自分の利益だけを祈るものではなく、
また、神や仏が実在すると信じて祈るわけでもない。
他に手がないとき、最終手段として祈りがある。
祈りは、何よりも即自的な関係性を対自的な関係性へ変え得ると、私は考えている。
ここが、天風に共感と違和感を感じるところである。
反発を感じるのは、天風が、人間を特別な存在とみなすところである。
「万物の霊長たる人間の真の本領を発揮し、本当に生き甲斐のある人生を活きるのに必要な悟りを開かせる…」(『同書』p.27)。
この「万物の霊長たる人間」という表現が、頻繁に本書には出てくる。
人間が万物の霊長とは、とても思えない。
他の存在と、その存立構造に異質な面があるゆえ、そう思いあがっているだけである。
人間文明は、自然的存在を基盤にしか成立しない。
自然は、保護すべき哀れで弱い対象ではなく、それがなければ、人間が存在できない、という意味で、エッセンシャルなものである。
しかも、この自然的存在は、人間の内部にも外部にもある。
そして、人間は、外部の自然的存在を糧にすることでしか、自分を活かすことができない。
これは、人間文明と自然的存在との物質代謝にとって必要なプロセスであり、私は、これを、原理的な罪=原罪と概念化している。
アウグスチヌスの言う、「人間は生まれながらに罪の状態にある」、「生まれた瞬間から神との関係が壊れている」、「自力ではその状態から抜け出せない」、といった神学教義における原罪とは異なって、人間の存在構造に内在する原理的な罪という意味である。
私に言わせれば、アウグスチヌスは、この原理的な罪を神学的に表現したにすぎない。
人間が万物の霊長などという発想──これは、植民地主義の思想と同型である──からは、本来の意味での謙虚さは生じない。
本来の、そして、他在・他我との共存に必要不可欠な謙虚さとは、人間が自然に依存し、他の生命との物質代謝の中でしか存在できないことを自覚することだからである。