京都日誌(434)
■7月30日、木曜日、積乱雲ある晴れ。
7時間、中途覚醒なしで眠れた。
あすから、2週間ほど、若宮へ戻るので、洗濯物を洗って、コインランドリーで乾燥させる。
コインランドリーの調子が悪くて、別の乾燥機で再度乾燥させたので、時間がかかった。
その後、終日、六本木の仕事。
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7月17日に可決された改正皇室典範は、国民の総意でもなく、国会の総意でもなく、ただ、たんに、麻生太郎一族の男系男子の総意に過ぎない。
その単なる一族の総意が、社会的総意になるのは、代議制民主主義における、形式的多数決による意思決定システムに内在する社会操作性が大きな要因である。
一度、有権者の付託を受けると、その付託の内容とは無関係に、その後の国会における多数化工作で、「社会的総意」を作り出せる。皇室典範改正は、2月の衆議院選挙の公約の全部で5つあるカテゴリーの最後の5番目のカテゴリーの、さらに、その2番目であるにすぎない。
上位に、有権者に切実な経済政策や安心を調達する安全保障政策を持ってきて、票を集めて、あとで、公約に入っているとして、皇室典範改正をごり押ししている。
この麻生副総裁の国会の多数派工作を強力にサポートしたのが、麻生派に総理にしてもらった高市早苗総理である。
麻生副総裁のパワーの源泉は、唯一解体されなかった麻生派という派閥と、資金力と、皇室とのつながりである。
この資金力を可能にした麻生一族の資本蓄積は、よく知られているように、朝鮮人に対する強制労働による搾取である。
麻生太郎氏の一族が経営した麻生鉱業(旧麻生商店)は、戦前・戦時期に多数の朝鮮人労働者を使用した。
麻生商店・麻生鉱業傘下の山内、上三緒、綱分、吉隈などの炭鉱は、福岡県筑豊地方にあった。
行政資料など豊富な資料ををベースに、浜松地域の市民運動団体「人権平和・浜松」が作成した、朝鮮人強制労働に関する調査・解説ページによれば、1939年から1945年までに同社へ動員された朝鮮人は1万人を超え、1943年末には全労働者の約36%を占めていた。
1932年の争議資料では、麻生系炭鉱の平均月収は三井・三菱系炭鉱の約半分であり、長時間労働、強制積立(炭鉱会社や宿舎兼労務管理組織の「納屋」が、労働者本人の意思にかかわらず、賃金の一部を天引きして預かる制度)、暴力的な労務管理も記録されている。
米国出身の政治学研究者・ジャーナリストで、戦時中の日本企業による中国人・朝鮮人・連合国軍捕虜の強制労働と、戦後補償問題を専門的に調査してきた、ウィリアム・アンダーウッドは、特高の戦時報告をベースに、1939年の労務動員開始から1944年1月末までに、麻生鉱業系の事業所へ移入された朝鮮人労働者の累計数を7996人、逃亡者数を4919人、死亡者数を56人と算定している。逃亡率は、約61.5%である。
麻生炭鉱系の事業者では、6割以上の朝鮮人労働者が逃げ出すほどの労働条件の酷さ、ということが言える。
アンダーウッドは、朝鮮人労働者だけでなく、麻生吉隈炭鉱で1945年に300人の連合国軍捕虜――オーストラリア人197人、イギリス人101人、オランダ人2人――が働かされていたことを、麻生鉱業自身の報告書によって示した。
この事実は当初、麻生太郎氏や外務省が確認を避けていたが、厚生労働省所蔵の公文書が見つかり、2009年1月、麻生氏自身が国会で「旧麻生鉱業に関しては、連合軍捕虜を労役させていたという事実が、昨年の厚生労働省の調査で新たに明らかになりました」と認めている。
こうした低賃金労働が麻生家の石炭事業を支え、その企業資産と事業組織が、戦後の麻生産業、さらに麻生セメントへ継承されたのである。
これが、麻生副総裁の権力の社会的出自である。
ちなみに、福岡市博物館 ・総館長の有馬学氏が、2022年に、「逃亡した朝鮮人はどこへ行ったのか? : 日本に戦時
動員された朝鮮人の再移動・再配置としての逃亡」という論文を発表している。
この論文は、明治鉱業株式会社の8鉱業所(福岡県筑豊地方や福岡県田川郡、北海道釧路炭田、北海道留萌炭田など)に集団移入された朝鮮人坑夫の累計8508人に対して逃走者3684人で、逃走率は43%であっ
たことを教えてくれる(1939年から1942年12月現在)。
麻生商店・麻生鉱業の1939年から1944年1月現在までの朝鮮人労働者の逃亡率61.5%は、明治鉱業とは資料の時期が違うため、直接の比較はできないが、かなり高いものであったとは言えるだろう。
逃亡率なる概念の存在自体が、そもそも、異常であり、その異常性が、4割や6割を超える、という事実自体もさらに異常と言わざるを得ない。