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京都日誌(459)

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  ■9月15日、火曜日、曇り、夜、激しい雨。 午前中、身心調整、洗濯、コインランドリー、掃除。 季報『唯物論研究』176号 が届く。 大阪労働学校・アソシエ の9月講座にいくつか申し込む。無料。 宗教哲学と都市社会学の講座。 身心調整のフェイズ1~4を行う。 きょうは、よく眠れたので、気分が良かった。 午後から、仕事関係の作業。 夜、サイモン・シンの『暗号解読』を読む。 ★ 在日朝鮮人学研究者で、 猪飼野セッパラム文庫 スタッフの宋実成(ソン・シルソン)さんの雑誌『ソンジャーナル』が、9月号で、1946年、朝鮮人密航者収容所で、朝鮮人300人が餓死した事件を報じている。 これは、日本の敗戦前後の1944年から1946年に、帰鮮した朝鮮人達が、ふたたび、日本へ渡り、それを密航者として逮捕し、福岡県鐘ヶ崎(鐘ヶ崎村)収容所(合計12名死亡)や長崎県佐世保(針尾)収容所(合計265名死亡)などに収容し、一日握り飯1つの食糧しか与えないことで、餓死させた事件である。 再渡日し「密航」で逮捕された朝鮮人の数は、1946年7月~9月で、佐賀県2748名、長崎県、902名、福岡県3496名で、合計7136名に上った。 再渡日した朝鮮人が多かったのは、帰国先の南朝鮮(現、韓国)が、安心して暮らせる社会状況ではなかったためである。 ・日本の総力戦政策による物価高騰 ・植民地支配を担った親日派朝鮮人が反共親米派に転向して君臨 ・反共政策を優先させた米軍政は社会の安定に失敗し、街中ではテロと労働争議が頻発 ・米価高騰を見越した買い占めで食糧危機が勃発 ・東アジアからの引揚者とともにこれらが流入・蔓延 ・1946年9月には、南朝鮮鉄道ストで鉄道が運休 ・1946年10月には、植民地支配生産と人民政権樹立を求めて大邱ほか各地で「10月抗争」が発生し内乱状態に ・これが、1948年の「済州4.3事件」につながる 収容所環境改善を要望する朝鮮人連盟に対して、米軍佐世保第34部隊のパーキング少佐は、こう回答している。 1.正当な理由ある者は出来る限り即時釈放したい 2.食糧配給を増やすことはできない 3.毛布については余裕があれば配給する 4.逃亡の恐れがあるため収容所内での運動はさせられない 5.日本警察の非人道的破棄外については、調査の後、事実であれば厳罰に処する (1946年12月...

京都日誌(454)

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  ■9月7日、月曜日、曇り。きょうは、涼しかった。 便利堂書店で、私の愛読書『週刊現代』を買ったときに、「きょうは涼しいね」と話しかけると、店番のおばちゃんも、「まあまあ(涼しい)ね」と言っていた。 おばちゃんには、まあまあらしい。 朝、あわただしく6冊の冊子から、必要ヶ所をコピーして、札幌へ送る。 身心調整、掃除、即、仕事に入る。 9時間半、険しい労働をして、ルイボスティーを飲む。 ★ ウトロ平和祈念館 から、 『長生炭鉱』 図録が送られてきた。 この炭鉱の存在は、まったく知らなかった。 これは、山口県宇部市にあった海底炭鉱。1942年2月3日、水没事故によって183名が命を落とした。そのうち136名は、朝鮮半島から動員され、働かされていた。 長生炭鉱は、概ね1914年(大正3年)から1942年(昭和17年)まで稼働していた。ただし、途中に、水没事故による約10年間の休業期間がある(1922-1932)。 つまり、183人が亡くなる20年前にも、大きな水没事故があったのである。 長生炭鉱の労働者の75%が朝鮮人だった。当時、山口県の炭鉱全体における朝鮮人労働者の割合は、9.3%だった。 長生炭鉱は、桁違いに朝鮮人が多かった。 それは、1922年に大きな水没事故が起きたように、水没事故の可能性が、他の炭鉱よりも高く、そのことを、知っていた地元の日本人労働者を集められなかったからだろう。 朝鮮人労働者は、強制連行で日本へ連れてこられるか、甘言で騙されて連れてこられた。 このとき、水没事故のリスクは、まったく触れられず、「しっかり働けば、郷里に家が建つし、広い田も買える」といった言葉が、釜山などでは、言われていたという。 当時、長生炭鉱の寮に閉じ込められたひとの証言では、「ひとの背の二倍くらいの高さの高い板で周囲は囲まれており、よじ登れないようになっていた。寮から逃げて運悪く捕らえられると、素っ裸にされて、木刀ではなく革の帯で命が亡くなるほどリンチされた」という。 この事故が起きた1942年2月3日は、「大出し」と呼ばれる増産日だった。 事故の直接の原因は、拂堀り(はらいぼり)という非常に危険な採掘手法だった。 これは、天井を支えるために残すべき炭柱まで削り取る強引な手法で、これによって、要請された石炭量を供出していたのである。 粘結性のある石炭を乾留してコー...

京都日誌(434)

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  ■7月30日、木曜日、積乱雲ある晴れ。 7時間、中途覚醒なしで眠れた。 あすから、2週間ほど、若宮へ戻るので、洗濯物を洗って、コインランドリーで乾燥させる。 コインランドリーの調子が悪くて、別の乾燥機で再度乾燥させたので、時間がかかった。 その後、終日、六本木の仕事。 ★ 7月17日に可決された改正皇室典範は、国民の総意でもなく、国会の総意でもなく、ただ、たんに、麻生太郎一族の男系男子の総意に過ぎない。 その単なる一族の総意が、社会的総意になるのは、代議制民主主義における、形式的多数決による意思決定システムに内在する社会操作性が大きな要因である。 一度、有権者の付託を受けると、その付託の内容とは無関係に、その後の国会における多数化工作で、「社会的総意」を作り出せる。皇室典範改正は、2月の衆議院選挙の公約の全部で5つあるカテゴリーの最後の5番目のカテゴリーの、さらに、その2番目であるにすぎない。 上位に、有権者に切実な経済政策や安心を調達する安全保障政策を持ってきて、票を集めて、あとで、公約に入っているとして、皇室典範改正をごり押ししている。 この麻生副総裁の国会の多数派工作を強力にサポートしたのが、麻生派に総理にしてもらった高市早苗総理である。 麻生副総裁のパワーの源泉は、唯一解体されなかった麻生派という派閥と、資金力と、皇室とのつながりである。 この資金力を可能にした麻生一族の資本蓄積は、よく知られているように、朝鮮人に対する強制労働による搾取である。 麻生太郎氏の一族が経営した麻生鉱業(旧麻生商店)は、戦前・戦時期に多数の朝鮮人労働者を使用した。 麻生商店・麻生鉱業傘下の山内、上三緒、綱分、吉隈などの炭鉱は、 福岡県筑豊地方にあった。 行政資料など豊富な資料ををベースに、浜松地域の市民運動団体「人権平和・浜松」が作成した、朝鮮人強制労働に関する調査・解説 ページ によれば、1939年から1945年までに同社へ動員された朝鮮人は1万人を超え、1943年末には全労働者の約36%を占めていた。 1932年の争議資料では、麻生系炭鉱の平均月収は三井・三菱系炭鉱の約半分であり、長時間労働、強制積立(炭鉱会社や宿舎兼労務管理組織の「納屋」が、労働者本人の意思にかかわらず、賃金の一部を天引きして預かる制度)、暴力的な労務管理も記録されている。 米国出身の政治学研究...