京都日誌(478)

 






■10月10日、土曜日、快晴。北野天満宮の東側の塀の金木犀が満開。

身心調整のひとつである、歩く瞑想は、2024年4月から実施。

若宮にゐるときは難しいが、京都では、ほぼ毎日実施。

数日前から、身随観から心随観へ、少しづつ、レベルアップさせている。

心随観をやってみて、判ったのは、かなり「我執」が強いということだった。

仏教は、最終的に、これを取り去って、解脱を目指すわけだが、私見では、それは原理的に難しい。「我執」は、我々が社会的存在であるところから生じているからだ。

つまり、「我」の問題は、労働や、その前提の社会や国家の問題と表裏一体になっているからだ。

ロビンソン・クルーソーや、ユナボマー、一時期の福島菊次郎のように、完全に、社会と隔絶した生活を営めば、それは可能だろうが、それでは、そのひと個人の問題は解決しても、社会の問題は、依然として残ってゐる。

この原理的な問題があるがゆえに、仏教教団は、社会の中の存在として、戦時中は、天皇制国家体制に適応して自己保存する道を選び、戦後は、その原理のままに、今度は、民主主義社会に適応してゐる。

だから、修業は無意味ということではなく、私見では、ヴィパッサナー瞑想の効果は、「我執」をゼロにすることではなく、「我執」を統制することだと思ってゐる。さらに、心随観では、普通は、無意識にやっている自己客観化を徹底して行うことにあると思う。

これは、フロイトやラカンの精神分析とも、響きあう面があるが、仏教の瞑想では、サティというラベリング=言葉は、重要だが、それは説明ではなく、行為である。そして、それ以上にセンセーション(感覚)が重要になる。

ここが、言葉による説明や解釈が中心の精神分析とは、方法論的に異なってゐる。

「我執」の統制と自己客観化が、完璧にできるようになれば、ドゥッカ(苦)が減じるだけでなく、私見では、複雑な社会操作の網の目をかいくぐれるようになると考えている。

そして、それは、ある種の倫理学へとつながっている。

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「訳者あとがき」を書いて、ニコに送る。

素材はこれで揃ったので、あとは編集作業を行うと同時に、次の仕事である『知識資本主義』の翻訳に入る。

AIの時代なので、単に翻訳するだけなら、機械がやってくれる。

この時代の付加価値は、詳細な訳注やコメント、解説、問題提起、そして、自分の理論への統合として、現れるのだろうと思っている。

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夕方から、運動へ。

夜は、『九条の大罪』第13巻を読む。


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