京都日誌(454)
長生炭鉱は、概ね1914年(大正3年)から1942年(昭和17年)まで稼働していた。ただし、途中に、水没事故による約10年間の休業期間がある(1922-1932)。
つまり、183人が亡くなる20年前にも、大きな水没事故があったのである。
長生炭鉱の労働者の75%が朝鮮人だった。当時、山口県の炭鉱全体における朝鮮人労働者の割合は、9.3%だった。
長生炭鉱は、桁違いに朝鮮人が多かった。
それは、1922年に大きな水没事故が起きたように、水没事故の可能性が、他の炭鉱よりも高く、そのことを、知っていた地元の日本人労働者を集められなかったからだろう。
朝鮮人労働者は、強制連行で日本へ連れてこられるか、甘言で騙されて連れてこられた。
このとき、水没事故のリスクは、まったく触れられず、「しっかり働けば、郷里に家が建つし、広い田も買える」といった言葉が、釜山などでは、言われていたという。
当時、長生炭鉱の寮に閉じ込められたひとの証言では、「ひとの背の二倍くらいの高さの高い板で周囲は囲まれており、よじ登れないようになっていた。寮から逃げて運悪く捕らえられると、素っ裸にされて、木刀ではなく革の帯で命が亡くなるほどリンチされた」という。
この事故が起きた1942年2月3日は、「大出し」と呼ばれる増産日だった。
事故の直接の原因は、拂堀り(はらいぼり)という非常に危険な採掘手法だった。
これは、天井を支えるために残すべき炭柱まで削り取る強引な手法で、これによって、要請された石炭量を供出していたのである。
粘結性のある石炭を乾留してコークスを作り、製鉄所の高炉で鉄鉱石を還元した。つまり、高炉に鉄鉱石・コークス・石灰石を入れ、高温で反応させ、一酸化炭素を発生させ、鉄と二酸化炭素に分解した。
このようにして、鉄鉱石に含まれている酸素を取り除き、金属としての鉄を取り出す。こうして生産された鉄鋼は、軍艦の船体・装甲・砲身、戦車や車両、航空機のエンジン部品、銃砲・砲弾、造船所や航空機工場の工作機械などに使っていたのである。
他方で、石炭をボイラーで燃やして蒸気を発生させ、発電機を回して電力を生産していた。この電力で、造船所、製鉄所、兵器工場、化学工場などを操業していたため、大量の石炭が必要だったのである。
長生炭鉱の水没事故が起きた1942年2月3日は、太平洋戦争の開戦から約2ヶ月後になる。当時、日本軍は東南アジア・太平洋地域で急速に占領地を拡大していた時期だった。
日本の炭鉱では、当時、熟練した炭鉱労働者が徴兵・徴用され不足し、採炭機械や坑木、鋼材などの資材も不足していた。
さらに、設備の酷使によって故障・摩耗が進み、船舶不足により、北海道・九州などから工業地帯へ運べなくなっていた。
しかも、製鉄用コークスに適した良質な粘結炭が国内では限られていたところへ、軍需拡大によって、石炭需要そのものが急増したのである。
石炭の埋蔵量そのものよりも、採掘体制と供給輸送体制に大きな問題を抱えていた。
産業基盤が、これほど貧弱であるのに、戦争を拡大していくという、社会全体の狂気の犠牲者となったのが、この長生炭鉱の183名だったと言えるのである。