京都日誌(450)

 






■9月3日、木曜日、秋雨。

身心調整後、仕事に入る。終日雨で、湿度が高い。

仕事の後、「徹底討論vol.12 宗教は戦争にどう関わってきたのか(後編)」を視聴する。

後編も実に面白く、勉強になった。

靖国の問題も語られており、小原克博同志社大学学長は、そこに、「犠牲の論理」が存在すると指摘している。

これは、人類史の中で、古くからあるロジックで、神に生贄を捧げる、あるいは、だれかのために死ぬことを正当化する論理。

これは、近代の民族国家になると、神の代わりに、この民族国家が出てくる、天皇が出てくる、という形式に変質する。

小原さんは、この国家──nation-stateであるが──を、国民国家という間違った理解をしている。日本では、よくある翻訳上の間違いである。

国民は、国家が前提で存在するのであるから、国民国家と言っては、国家の性質を説明したことにならないし、この国家という存在のそもそもの排外的な性格──これは、正確には排内外性と言える、国家内部においても、血統の正しい、健全な、大和民族からはみ出した、精神病者や被差別部落などが排除される機制が存在するからである──が見えなくなる。

nationには、民族という意味があり、一民族で一国家を形成する、という人工的・仮構的な性格を持った国家のことをnation-stateという。

このように考えることで、初めて、国家を構成する幻想の大和民族からはみ出るアイヌ民族や沖縄の人々、朝鮮人などの、マイノリティ問題・差別問題が、国家成立と同時に発生することや、民族外部の異民族へと国家領域を、植民地として拡大する運動を、そもそも、持つという、この近代の人工・仮構国家=民族国家の機制を捉えることが出来る。

つまり、靖国神社というのは、この民族国家において、太古からの人類史に存在する「犠牲の論理」が、死を美化する装置として、近代の民族国家に引き継がれ、このような形態の近代国家の運動を再生産する重要な装置として、機能してきたと言えるのである。

死の美化は、親密圏からの死の剥奪であり、国家のために安心して死ぬ国民の生産でもある。

総理の靖國神社参拝は、A級戦犯合祀ということが、対外的な、侵略された被害者にとっての問題であると同時に、マイノリティ問題・差別問題・死の剥奪の再生産として、民族国家内部に原理的に抱えている諸問題を追認していると言えるのである。

エラスムスは、『平和の訴え』の中で、戦没者には、普通の墓地が与えられるべきだ、と述べている。

これは、死を剥奪した国家から死を取り戻す、ということに他ならない。

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