京都日誌(489)
■11月1日、日曜日、曇り、ときどき晴れ。
午前中、ヘーゲルの『精神現象学』を原典で読む会。
この会も、2016年か2017年くらいから続いているので、かれこれ、10年になる。
日本の思想・理論の教育は、外書購読という形式が一般的で、原典を左に、和訳を右に置いてノートに書き下し、指導教授による解説を踏まえた訳文の添削が、主な授業内容になる。
こうして作られた翻訳文体は、いわゆる、翻訳文体であり、それ自体では完結しないことが多い。つまり、日本語だけ読み返したのでは、理解できない箇所が出てくる。
原典を左において、常にそれを参照するという条件で訳されたものだからである。だから、本になっても、翻訳に原文が添えられていたりする。
こうした外書購読の伝統が2回に渡って変革期を迎えている。
第1回は、日本語だけで完結することがめざされた変革期である。
それは、知的水準が比較的高い団塊の世代が、定年を迎えて、その時間的余裕から来る知的欲求に応えるべく出版業が企画した、いわゆる古典新訳の流れである。
これは、今、話されている言葉で訳す、というのがキャッチフレーズで、その内容は、基本的に、原典を見なくても、日本語だけで完結できるというところにある。
それは、これまでの外書購読の伝統において、訳者解説の日本語と訳文の日本語との著しい乖離を、問題の典型的な表現と見る見方が牽引した。
私が師事した社会科学の翻訳家、故山岡洋一氏は、「意地でも訳注はつけない」と語っていた。これは、翻訳文の日本語だけで完結させるという思想である。
こうした新しい翻訳の流れは、一定の役割を果たし、今も果たしつつあると思うが、他方で、伝統的な外書購読の教育から出てきた、いわゆる学者訳の格調の高さは、その内容理解の深さと相まって捨てがたいものがある。
現在は、変革の第2期にあり、それはAIの出現が決定づけた。
最初は、DeepLなど、ディープラーニングを用いた優れた機械翻訳の登場から始まり、今や、AIによって、翻訳や内容解説ばかりか、論点提示や疑問点を巡る議論まで、できるようになっている。
つまり、第2期では、指導教授や先生、チューターが不要になりつつある。
これは、学生の知的水準や教育制度そのものに深い影響を与えつつある。
成人が集う読書会においても、AIの登場で、専門家─非専門家という序列に意味がなくなりつつある。
むしろ、社会経験や知的背景がある成人の集まりほど、専門家との境界線はあいまいになってくる。
そうであるから、逆に、読書会の本来性がよりよく出てくる。つまり、訳すだけでへとへと、理解するだけで半日がかり、といった労力が不要になる。
代わって、そのテキストの本質をめぐって、自身の経験や現在情勢を踏まえた意見交換に入りやすくなる。
私は、読書会というのは、とても面白い文化的習慣だと思っている。
独りで読むだけとは違った意見交換があるところが魅力であり、AIにはない、ぶっ飛んだ飛躍や脱線があるところに、深い意味があったりする。
そして、なにより、読書会において、何を目的とするかが、これまで以上に、自覚化せざるを得なくなるだろう
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午後から、晴れ間が見えてきたので、懐かしい等持院あたりを散歩。
なんと、40年前に下宿したアパートがまだ残っていた。だいぶ、老朽化していたが。
等持院の目と鼻の先が立命館大学で、きょうは、学園祭の「衣笠祭典」だった。
等持院の庭までよく響き、かなり賑やかだった。
石庭と池でも見て、無心になるつもりだったが、かなりすべった。
それも一興か。