老化と記憶について(季報『唯物論研究』176号)

老化と記憶について

                             尾内達也

 

 

      他界という雨が樹木に染み込み

それを養分に私達の中で記憶が萌芽していく。

その気配を思い出し、語り継ぐたびに、風のように森を揺らす。

今世は常に生命の産声が響き続けている。

 

石原加弥子(二〇二六年)

 

1.  はじめに

 

本稿は、自明と思われる「老化」と「記憶」と、そして、この二つの関係について改めて検討することを通じて、本特集のテーマである「老いの文化を作る」ことに資することを目的としている。その際、考察対象を個人レベルと社会レベルの二つの次元に分けて考察する。

言い換えると、個人としての老化とその記憶社会としての老化とその記憶という問題圏を扱う。

 

2.   記憶とはなにか?

 ニーチェ(一八四四─一九〇〇)は、一八八七年十一月に出版された『道徳の系譜学に向けて』の第二論考「『負い目』、『やましい良心』および関連事項」の中で、記憶の問題を扱っている。

 冒頭、ニーチェは、約束と健忘を対比しながら、こう論じる。

 「約束することが許される動物を育成すること──これがまさに人間に関して自然がみずからに課した、かの逆説的な課題ではないだろうか……。この問題はかなりの程度解決されているが、そのことは、課題に逆向きに働く力である健忘の力を十分に尊重する術を心得ている人からすれば、それだけいっそう驚くべきことに思えるに違いない。健忘とは、浅薄な者たちが信じているように、単なる〈惰性力〉なのではない。むしろ、能動的な、最高に厳密な意味で積極的な阻止能力なのであって、この能力のおかげで、われわれが体験し、経験し、内に取り入れるものは、そもそも消化される状態(「魂内同化」と呼んでよいだろう)にある時には、われわれの身体の栄養摂取、いわゆる「体内同化」が行われる幾重にもわたり加工過程全体と同じように、少しも意識に入ってこないのである。意識の扉や窓をしばし閉じること、有用な身体器官の構成するわれわれの皮下世界が互いに協力したり敵対したりしながら繰り広げる騒音や戦いに煩わされずにおかれること、意識の少しばかりの静寂、少しばかりの純白地帯があって、そのため新たなものに、何よりも、より高貴な機能や官吏に、統御や見通しや先導的決定(というのも、われわれの有機体は寡頭政体制をなしているのだから)に再び余地が残されるようになること──こうしたことが、述べたように、能動的健忘の、いわば扉番であり心的秩序の維持者の、静かな落ち着きと礼儀作法の維持者のもたらす利点なのである。ここからすぐに見て取れるように、健忘なしには、いかなる幸福も、晴朗さも、希望も、矜持も、現在もありえない」(『道徳の系譜学に向けて』須藤訓任訳、二〇二六年、七五頁─七六頁)。

 ここでニーチェが言っていることは、忘れることの積極的な効果であり、忘れる能力があるからこそ救われる、時間がすべてを解決してくれる、といったわれわれの「生活の知恵」にも合致している。

だが、同時に、健忘が形成するこの晴朗さや幸福には、いささかの残酷さも交じることは、注意していいのではないだろうか。健忘もまた、社会関係の中で生じるものであるから、忘れる主体と忘れられる客体が存在するからである。

さらに、有機体を社会のアナロジーとして考える系譜との関連で、はっとさせられるのは、「われわれの有機体は寡頭政体制をなしている」という洞察である。逆に言うと、このニーチェの洞察は、あたりまえのように思っている民主主義体制が、コロナ禍のときによく現れたように、壊れやすく、機能不全に陥りやすいことも示している。寡頭制であるがゆえに、身体は全体として健全に、そしてタイムリーに機能しているとも言える。

特に驚くのが、ニーチェが「現在もありえない」と、時間と健忘との関連性を指摘している点である。〈いまここ〉に意識が定位することで、現在が開かれるが、それは人間の労働のありかたと深い関連性がある。労働において現れるのは、常に身体が存在する場所における〈いま〉である。それは、現在の目の前の作業であり、その作業が過去のことを扱っていても、作業自体は〈いまここ〉に現れる。ところが、われわれは、多くの場合、妄想に浸されており、身体はここにあっても、意識はここにないことはままある。このことは、今から約二五〇〇年前、ブッダが洞察し、ヴィパッサナー瞑想の実践によって、身心の分離から生じる〈苦=ドゥッカ〉を克服しようとした理由でもある。

さらには、フロイト(一八五六─一九三九)の見出した〈無意識〉との関連性を考える必要があるだろう。ニーチェは、フロイトを知らなかった。フロイトの〈無意識〉の発見になった『夢判断』の刊行は、一八九九年(奥付では一九〇〇年)だからだ。〈無意識〉の議論を入れれば、健忘が「意識の少しばかりの静寂、少しばかりの純白地帯」を作るとしても、〈無意識〉にまで健忘は及ばないと言える。〈無意識〉は意識的な統制はできず、夢を見ないように意思することはできない。フロイトが問題にしたのは、まさに、健忘を生じさせる抑圧の機制だった。

 ニーチェは、意識に対する能動的健忘の効用をこのように述べた後に、記憶という、健忘の反対能力を人間は鍛えあげたと、次のように述べている。

 「この阻止装置(健忘)が故障し、つかえるようになった人間は、消化不良患者に比せられる(比せられるだけではない──)。その人は、何事にも「決着」をつけられない……。ところが、忘却が一つの力、強い健康の一形態となる、まさしくこの必然的に忘れる動物が記憶というそれの反対能力を鍛え上げたのだ。記憶のおかげで、ある種の場合に健忘のスイッチが切られる──ある種の場合というのは、約束がなされる場合である。したがって、単に一度刻み込んだ印象から受け身の態をなして二度と離れられないということではない、いったん担保に入れた言葉に関して履行不能となり、消化不良を起こしたということではない。そうではなくて、能動的に二度と離れまいと意欲することであり、いったん意欲されたことを継続的に意欲し続けること、意志の本来の記憶である」(同書、七六頁)。

  ニーチェは、記憶を受け身的に受け取る何らかの印象ではなく、何らかのことを積極的に意欲し意志し続ける持続性と捉えている。これを「約束を交わしていい動物」と言っている。約束の相手は、自分の場合もあれば、他者の場合もある。いずれにしても、ニーチェは、記憶を社会関係形成の条件と捉えている。そして、興味深いことに、約束は、現在から見て、常に、過去に結ばれるが、将来の行為を保証するものである。つまり、約束は、過去の行為と将来の行為を意欲・意志の持続(記憶)で媒介することになる。

 この約束の時間的な契機は、ニーチェの記憶論が、労働論とリンクする射程を持っていることを示しているのである。ニーチェは、その点をこう明確に述べている。

 「(前略)見慣れない新たな事物や事情や、それどころか、(他の)意志的行動の世界が無頓着に挟み込まれても、意志のこの長い連鎖は途切れることがない。

 しかし、その前提となるのは、いったい何なのか。このように、将来を先行的に処置するためには、人間はどのようなことをまず学んでおかなければならないのか。必然的生起と偶然的生起を区別し、因果的に思考すること、遠く離れたものを目の前のもののように見立て、先取りし、何が目的であり、何がそのための手段なのかを確実に見積もること、全般的に言って、計算し、算定できること──こうしたことのためには、人間自身が第一に算定可能で規則的で必然的なものになっていなければならない、自分で自分をイメージする場合にも、そのようになっていなければならない。そうして、ついには約束する者がするように、将来の自分を保証できるようになるのである!」(同書、七七頁)。

 ニーチェ(一八四四─一九〇〇)のこの箇所は、マックス・ヴェーバー(一八六四─一九二〇)の近代官僚制論や最終形態としての近代人論、計算可能性としての資本主義論に木霊し、ジェルジ・ルカーチ(一八八五─一九七一)の労働論における目的論・因果論・手段論、必然的生起に関わる科学的法則論といった労働原理論に木霊している。

 ニーチェの記憶論は、約束可能性(あるいは、約束資格性)として、社会的実践論へと開かれているのである。言い換えれば、記憶能力は約束を媒介し、社会的実践のモデルとしての労働を稼働させる前提条件であり、かつ、その帰結なのである。記憶能力は、社会が社会として成立し続けるためのモーターのようなものである。記憶能力自体は、個人の生物学的な現実に属するが、記憶されたものは、個人の内側にだけ存在するのではなく、約束や契約などを通じて、個人の外の社会にも組み込まれている。したがって、記憶能力に障害が起きると、個人生活の側から見た社会生活全般に障害が起きてしまう。また、高齢化社会になり、社会の多くの成員の記憶力が低下したり、アルツハイマー病などで記憶障害を持つ人が増えたりすると、社会の側にとって、この記憶の問題は深刻な問題となる。


3.  記憶障害の結果、なにが起きるか?

高齢者心理学や認知心理学などを専門とする増本康平氏は、著書『老いと記憶』([二〇一八年]二〇二〇年、第六版)の中で、「認知症などに見られる記憶障害と、加齢にともなう記憶力の低下は同じではない」と述べている。

 その上で、記憶障害とは、一般に、時間や場所の情報を伴った過去の出来事の記憶であるエピソード記憶の障害を指すと説明している。

 増本氏らは、このエピソード記憶のみ障害がみられ、その他の言語機能や知能は健康な人と同じレベルにある患者を対象として、その介護者である家族にインタビューしている。

 このインタビューが明らかにしたのは、エピソード記憶に障害があるだけでも、コミュニケーションや趣味、金銭管理などの日常生活のさまざまな問題を引き起こすことだった。

 たとえば、空間の記憶については、以下が報告されている。

「外出先から所持品を忘れずに持って帰ることができない」「一人でよく知っているお店に買い物に行くことができない」。「駐車場(駐輪場)にとめた車や自転車をみつけることができない」。「一人で通院することができない」。「一人で外出の準備をすることができない」。

コミュニケーションに関わる問題として以下は報告されている。

「病前から知っている友人・知人の名前を言うことができない」。「最近の話題(ニュース)を理解できない」。「言われたことに即座に対応することができない」。「その日の出来事について家族と話すことができない」。

ニーチェの議論とも関わる予定や計画に関する問題については、次のように報告されている。

 「待ち合わせの約束の時間を守ることができない」。「一人でいるときにあった電話や来客を家族に伝えることができない」。「予定どおり生活することができない」。「頼みごとをされても実行することができない」。「計画を立てることができない」。「正しい時間に薬を飲むことができない」。

 さらに、趣味や仕事において生じる問題をこう報告している。

 「ひとつのことを集中して行うことができない」。「新しいことにチャレンジすることができない」。「本や映画のストーリー(内容)を理解できない」。「一度中断した事を、途中から再開することができない」。

 また、金銭管理上の問題として、以下が報告されている。

 「お金の管理ができない(支払い・銀行口座・貯金など)」。「大事なもの(財布・鍵など)を置いた場所を把握することができない」。

 家事では、以下のような問題が報告されている。

 「お風呂を沸かすことができない」。「コンロでお湯を沸かすことができない」。(『老いと記憶』([二〇一八年]二〇二〇年、第六版)二九頁─三〇頁)

  これらは、若い人でも経験することがあるものの、記憶がいかに社会生活に必要なものか、いや、むしろ、記憶とは社会生活そのものと言っていい現実を、改めて浮き彫りにしている。

 増本氏は、エピソード記憶の障害の原因は、一酸化炭素中毒や頭部外傷、アルコール依存症によるコルサコフ症候群などによって、生じると述べている。

 しかし、増本氏は、同時に、「エピソード記憶の障害は、アルツハイマー病など認知症でも初期の段階から見られる」と述べている。

 厚生労働省の最新推計では、二〇二二年時点の認知症高齢者は、四四三万二千人である。二〇三〇年には、五二三万一千人、二〇四〇年には五八四万二千人と推計されている。厚労省は、高齢者における認知症有病率も推計している。このとき、「高齢者」とは、六十五歳以上の人口である。この推計によると、二〇二二年で、一二・三%、二〇三〇年には、一四・二%、二〇四〇年には、一四・九%である。二〇六〇年になると、一七・七%という高率になる。

少子高齢化が進むと、社会の二割弱が認知症という時代になるのである。こうした認知症患者をだれが介護するのか、という深刻な問題が生じることがわかる。認知症患者自身も、前述した日常生活上の問題を抱えるだけでなく、社会全体の問題として、介護を行わないと社会が社会として機能しない、という事態になる。

 

4.   個人的な介護経験から記憶に関する二、三の知見

十五年ほど前、認知症になった独居の叔母を六年間、介護したことがある。前半三年は、ケアマネとヘルパーさんのお世話になりながら、自宅で介護し、後半の三年間は、特養に入ってもらい、週に一度、施設に見舞う態勢を組んだ。

 現在、介護保険でケアマネやヘルパーさんなどに、週に何回かお願いして掃除や料理や入浴などを行うことができる。しかし、介護保険制度が、制度として十分に機能するには、認知症患者と制度との間を取り持つ人間が必要になる。

たとえば、叔母との日常会話の中で出てくる叔母の要望(叔母はすぐに忘れる)や、私から見て必要なことを、ヘルパーさんに具体的な指示として伝えることが、必要になってくる。

このため、ケアマネやヘルパーさんとの連絡用にノートを作成して、そこに、具体的な指示を書くだけでなく、ケアマネやヘルパーさんにも叔母に関する情報や、今困っていること、事務連絡などを書き込んでもらうことにした。こうした相互連絡と問題解決の提案などを通じて、一つの介護チームのようなものができあがってきた。

介護する人間にも仕事や家庭があるので、いかに、情報を効率的に、誤解なく伝え合うかということが重要な意味を持ってくる。

認知症になった高齢者の中には、介護保険でお願いする他人に、家に入られたくないという人や、ヘルパーさん自身も、高齢なことも多いので、自分が何もせずに、高齢ヘルパーだけに掃除を週に何度もさせることに、心理的な負担を覚える人もいる。

私は、叔母の介護を長期間、行う機会があったため、叔母との日常のやり取りや観察などを通じて、人間の老化プロセスや、アルツハイマー病の具体的な病態、高齢者の心理などについて、詳しく学ぶことができた。

叔母の介護経験で、私が印象に残っていることが二つある。

一つには、叔母は医療従事者だったが、睡眠薬にトラウマを持ち、医師が処方する睡眠薬は、それが軽い睡眠導入剤であっても、いっさい服用しなかった。この結果、高齢になって、睡眠時間が短くなり、中途覚醒が頻繁に起き、睡眠の質が悪化するようになっても、睡眠薬などの対応を取らなかったのである。「夜眠れない」という訴えを聴くことが増え、何度も、睡眠薬について話し合ったが、最後まで、聞き入れることはなかった。

もう一つは、叔母が七十代に入った頃から、よく行く親戚の家に正しく行きつくことができなくなった。親戚の人の手を借りて、ようやく目的地にたどり着くのである。このことに、叔母自身、ショックを受けていただけでなく、たいへん怖がっていた

空間の記憶が失われ、よく知っているはずの道や景色が未知のものとして当人に現れてくるようなのである。また、何度か行っているはずの医院へも、一人では行けなくなってきた。私が一緒に行っても、私自身がそこへ行ったことがなく、しかも、叔母は医院の名前も忘れているので、その医院を見つけることができず、別の医院へ連れて行ったことがあった。こうしたことにも、叔母自身、たいへんショックを受けていた。

よく高齢者の「迷い人」の連絡が、自治体からメールで送られてくるが、それも、こうした認知症による空間記憶の喪失が原因だろうと思われる。

人の名前が出てこなかったり、今憶えたことをすぐに忘れたり、思い出を忘れてしまうといった症状以上に、叔母を見ていて、この空間の記憶喪失の恐怖感と深刻さは、強く印象に残っている。

空間記憶は、人間の社会的実践のベース中のベースであり、それが失われ続けるとき──それは、かつて知っていた道を、一度忘れてしまうだけでなく、今、目前の空間の記憶も、忘れていくのである。それは、狂気の世界に住むこととほぼ等しいと想像できるのである。叔母の恐怖は、こうしたことに由来するのだろうと思われる。

このような介護経験から、私は、記憶能力には睡眠が深く関与していると確信してきた。これは、多くの臨床医も感じていたことで、二〇〇九年に、米国で、アルツハイマー病と睡眠の関係についてマウスで実験が行われ、二〇一六年には、米国の六十五歳以上のアルツハイマー病の高齢者一万一千人以上を対象に追跡調査が行われた。後述するように、これらから、睡眠とアルツハイマー病には、深い関係性があることが実証されている。


5.   脳内リンパ系のグリンファティック・システムとは? 

 認知症の約七〇%は、アルツハイマー病だと言われている。アルツハイマー病は、アミロイドβ()やタウたんぱく質が、脳内に蓄積することで、神経細胞同士の情報伝達が障害され、細胞が死滅し、脳が萎縮していく。特に記憶を司る海馬や側頭葉・頭頂葉から萎縮が始まることが多いという。

 このアルツハイマー病に関連して、脳の老廃物を排出する脳内リンパ系システムの「グリンファティック・システム」が、近年たいへん注目されている。

 岐阜大学脳神経内科学分野教授の下畑享良氏が、五月十九日のポッドキャスト「ドクターサロン」で、このテーマをわかりやすく解説している。

 下畑教授によれば、これまで、脳内にはリンパ系はないと考えられてきた。脳は、体重のわずか、約二%の重量(約一・四キログラム)だが、身体が消費する全エネルギー(ブドウ糖)の約二〇%を消費する。これまで、脳内のこの活発な代謝で生じる老廃物、アミロイドβやタウたんぱく質をどうやって排出しているのか謎だった。そもそも、リンパ管の役割は、老廃物・異物の除去、免疫機能の中枢(リンパ節では、抗原提示やT細胞・B細胞の活性化が行われる)、組織液の回収であるが、このリンパ管が脳にはないのに、どうやって、この活発な代謝でできた老廃物を排除しているのか謎だった。

ところが、二〇一二年という、つい最近、米国のロチェスター大学のマイケン・レダーガードという女性研究者が、脳内リンパ系システムである「グリンファティック・システム(glymphatic system)」が脳内に存在することを突き止めたのである。

 このシステムの仕組みは、次のとおりである。

 脳内の血管、特に動脈の周りには脳脊髄液が流れている。脳脊髄液は、動脈の周りの動脈周囲腔から、動脈の拍動をポンプとして、脳の中へ染み込むように流れている。

 脳脊髄液は、脳細胞の隙間である間質に流れ込む。この間質は、間質液で満たされている。この間質液に、アミロイドβやタウたんぱく質が、脳細胞から排出されている。その老廃物を含んだ間質液を、流れ込んだ脳脊髄液が押し出して、老廃物と一緒に洗い流している。

 この老廃物を含んだ液体は、静脈周囲腔まで流れて行き、脳内の髄膜リンパ管(二〇一五年に発見)を経由して、最終的に脳の外部の頸部リンパ節へ排出されている。

 以上が、グリンファティック・システムの仕組みであるが、重要な発見は、睡眠中に、このグリンファティック・システムがもっとも活性化する、ということである。二〇一六年、アルツハイマー病の、それ以外は健康な高齢者一万一千四五三人を、追跡調査する研究が米国で行われた。その結果、判ったのは、睡眠障害のある人はない人と比べて、四倍以上アルツハイマー病になりやすい、ということだったのである。

 下畑教授は「深い十分な時間の睡眠は老廃物を除去し、認知症予防に繋がる」と述べている。

 認知症を予防するには、深い十分な睡眠(七時間程度)を確保することが最も効果的だが、グリンファティック・システムの仕組みからも判るように、身体全体のリンパ系の流れを改善することも、たいへん効果がある。

 大阪大学の免疫学者、宮坂昌之名誉教授は、身体のリンパ系の流れの改善を目的にしたブレインウォッシング体操を考案し、YouTubeで発信している。筆者も、この体操の愛好者の一人である。


6.   天道虫の記憶とは?

  ところで、人間以外の存在にとって、記憶とはなんだろうか?

先日、洗濯物を取り込んでいた妻が、天道虫の幼虫が、大量に発生していると言っていた。天道虫は、夏の代表的な季語だが、天道虫をバイオセミオティクスの枠組みで解説した歳時記を、私は知らない。

例外なく、歳時記は、すべて、人間中心主義で書かれている。

たとえば、「天道虫には、益虫と害虫がいる。日本の民間伝承にも登場し、『天の使い』、『福の使者』として吉兆の象徴とされる」などである。

人間以外の存在の記憶のあり方を検討することで、人間の記憶のあり方の特徴が浮かび上がるのではないだろうか。

天道虫は、色や匂い、化学痕跡、温度、光、他個体の存在を認識し、その組み合わせによって、その行動を選択している。つまり、その意味で天道虫にも主体があると言える。

たとえば、天道虫は主にアブラムシを食べるが、視力が弱いため、遠くから、アブラムシそのものを見ることはできない。

その餌の識別に天道虫は、植物が出す化学物質を利用している。

植物はアブラムシに吸汁されると、テルペン類、グリーンリーフボラタイルなどの揮発性物質を放出する。

天道虫は、これを嗅覚で感知して、「ここに餌場がある」という、意味をもった記号として解釈して行動し、その植物へ飛ぶ。さらに、葉の上を歩きながら触角や足で、この化学情報を読み、アブラムシを発見する。

天道虫は昆虫なので、左右に複眼がある。複眼は多数の個眼から構成されているが、個眼数は数百程度で、蜻蛉の数万個には遠く及ばない。

この天道虫の複眼は、動くものは認識できる、明暗はわかる、色もある程度識別できるが、細かな形状の識別は難しく、遠方の対象を鮮明に見ることはできない。

天道虫は、我々の生きている三次元空間とは、異なった環世界(Umwelt)を生きている。環境(Umgebung)が、生物の外側に客観的に存在する物理的・化学的世界で、観察者が外から記述できる、いわば「神の視点」からの世界であるのに対して、環世界は、ある生物がその知覚器官と行動器官を通じて、自ら意味として切り取っている世界で、同じ物理的環境の中にいても、生物の種によって環世界はまったく異なっている。

天道虫が実際に生きている環世界は、記号や意味を剝奪した抽象的な三次元幾何学では記述できない天道虫の空間は、諸々の記号の体系の意味によって媒介され、組織化された空間となるからである。

具体的に言えば、天道虫の空間は、アブラムシの匂いが強くなる方向や葉の表面の傾き、光の方向、温度勾配、他個体の化学痕跡などで、組織された意味勾配ある空間となる。

この天道虫の意味空間を、記憶との関りで考えてみると、揮発性物質を嗅覚で捉えて、その植物の葉の上を歩くとき、天道虫の触角・足底の化学受容体は、アブラムシの葉との過去の接触の痕跡を読んでいる。

これは瞬間の知覚ではなく、時間の圧縮した地層と言える。アブラムシが以前いた葉の表面には、アブラムシが移動・摂食する際に残した化学物質(化学的痕跡)が残る。天道虫はそれを「現在の知覚」として処理しているが、その情報自体は過去を運んでいる。記憶は個体の脳内にあるのではなく、環境に分散して存在すると言える

天道虫の進化は、無数の世代の試行錯誤の記憶を遺伝子に刻んでいる。アブラムシに吸汁されたとき、植物の発するテルペン類に対する天道虫の走性反応は、生化学的に結晶した種族記憶といえる。ユクスキュル(一八六九一九四四)が述べるように、環世界の構造は、遺伝子という形式ですでに身体の設計図に書き込まれている。

バイオセミオティクスの中心人物の一人、イェスパー・ホフマイヤー(一九四二二〇一九)は、コード二重性(code duality記号的足場(semiotic scaffoldingという概念を提唱している。この場合、コードとは、ある情報を別の情報や行動へと対応づける変換規則のことである。

「生命(あるいは生物)は(利己的な)遺伝子の乗り物である」と論じたリチャード・ドーキンス(一九四一─)とは対照的に、ホフマイヤーはコードには二重性があると考える。つまり、生命の行動は、DNAのようなデジタルな遺伝情報に一義的に決定されるのではなく、生命は環境中の記号を選択・解釈し、意味に基づいて主体的に行動する存在でもあると考えたのである。

これを、全体的なシステムとして捉えたものが記号的足場(semiotic scaffolding)である。これは、遺伝子コード(デジタル情報)と細胞・神経系によるアナログな解釈・行動をつなぐ、多層的な記号制御のネットワーク全体を指している。記号的足場(semiotic scaffolding)は、生物システム内部における記号的相互作用、あるいは生物システムとその環境中の手がかり(cue)との間の記号的相互作用を通じて、より高度な機能遂行を可能にする

この仕組みにより、生物は局所的な文脈情報や先行知識を参照しながら、段階的で柔軟な意味生成を実現している。ホフマイヤーの言葉を借りれば、「生物システムの目的志向的性質は、解釈を誘導する記号的制御のネットワークから生じ、そのネットワークがスキャフォールディングを形成する」のである。

この場合の目的志向とは、人間の労働実践に典型的な目的定立的な行動とは異なっている。環世界の中の記号体系の意味を、生物が選択・解釈して行動することが、結果的に餌という目的を志向することになる、という意味である。

天道虫の記憶の問題に戻ると、生物はコードの二重性を持つため、超長期でほとんど変化せず失われない遺伝子の種族的な記憶と、環境に分散し、変化することもある記号体系の記憶の二種類があることになる。

この記号ネットワーク全体である記号的足場(semiotic scaffolding)が、天道虫にとって、組織された意味勾配ある空間を形成しているのである。 


7.   人間の記憶とは?

我々人間にとっても、この事情は同じはずである。我々も純粋な幾何学的な三次元空間を生きているわけではなく、物理空間の上に、過去の感情や記憶、社会関係などの意味の次元を重ねている。

このような意味次元と遺伝子情報の二重性が我々の行動を規定していると言えるが、他の生物と異なるのは、この意味次元の創発性の程度が圧倒的に大きく、時代や個人によってたえず、変化するということだろう。さらには、人間には、言語・制度・権力といった社会的なものによる空間形成があり、空間自体が社会的に生成される側面がある。

天道虫の機能環(揮発性物質などを有意味な記号として環境から選び出し捕食すること)は、変化することなく閉じているが、人間のそれは、大きく開かれていると言える。

この違いは、結果的に、文化システムを形成するか、しないかに帰結すると筆者は考えている。たとえば、天地創造の唯一神を信仰する天道虫は存在しないし、葬儀を行うアブラムシも聞いたことがない。

キリスト教福音派・ユダヤ教徒対イスラム教との宗教的対立と暴力の応酬や差別・排除の問題など、文化があることの功罪は、複雑なものがあるが、社会の記憶を担うものも、この文化システムなのである。

問題は、それがどのような文化システムにおいて、だれが何をどのように記憶するのか。そして、その文化システムの再生産を、どう民主的に統治するのか、ということである。

本特集のテーマである「老いの文化」を形成することは、まさに、人間の記憶の大きな特徴だと言える。

老いとは、記憶を失うプロセスではない。個人の記憶を社会の記憶へと移し替えていくプロセスである。「老いの文化」は、この移行を支える文化システムにほかならない。老いとは、記憶の担い手が、個別の身体から歴史的・社会的な身体へ移行するプロセスだと言えるのである。これを詳細に議論するには、「老いの文化」の歴史と個別事例の比較検討が必要になるが、それは別の機会に譲りたい。



石原加弥子、二〇〇二年島根県生まれ。島根を拠点に写真作家として活動している。写真家集団「リッケンバッカー」所属。

https://www.instagram.com/kuwayoshi0032/

https://ishihara-web.jimdosite.com/

https://atelierrickenbacker.art/

エピグラフとして引用した文章は、京都堀川のギャラリー「NEUTRAL」におけるリッケンバッカーの展覧会で、石原氏が自身の作品「いちとり」に寄せた文章である。二〇二六年五月一日、筆者はこの展示会において、この散文に強い詩的感興を覚えて、エピグラフとして、作者の許諾を得て引用したものである。

認知症及び軽度認知障害(MCI)の高齢者数と有病率の将来推計(厚生労働省、二〇二四年五月八日)https://www.mhlw.go.jp/content/001279920.pdf

脳内リンパ系ネットワーク(260512)(ドクターサロン、二〇二六年五月十二日、奇異九日更新)https://www.radionikkei.jp/podcast/dr_salon/260428.html

脳内リンパ系ネットワークパワーポイント資料(ドクターサロン、二〇二六年五月十二日)https://www.docswell.com/s/8003883581/5X2WN4-2026-05-13-094636#p1

Associations between Depression, Sleep Disturbance and Apolipoprotein E in the development of Alzheimer’s Disease: DementiaPubMed Central、二〇一六年三月二十九日)

https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4963299/

認知症予防対策としてのブレインウォッシング(脳洗い)体操(信州上田未来塾、二〇二六年六月二十九日)

https://youtu.be/08IyltMR4f4

バイオセミオティクスは、十九世紀末から二十世紀初頭に理論的源泉を持ち、二十世紀末から二十一世紀にかけて本格的に確立された新しい学問領域である。日本語では「生命記号論」あるいは「生物記号論」と訳される。バイオセミオティクスは、生物の認識・コミュニケーション・行動を、記号(sign)の生成・解釈・伝達という過程(semiosis)として理解しようとする学問分野である。その理論的基盤は、エストニアの生物学者、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(一八六九一九四四)の環世界(Umwelt)・機能環(Funktionskreis)、米国の哲学者、チャールズ・サンダース・パース(一八三九一九一四)の三項記号論(Triadic theory of the sign)、米国の記号学者、トーマス・A・セビーオク(一九二〇二〇〇一)の動物記号論(zoosemiotics)、およびデンマークの生物学者・科学哲学者、イェスパー・ホフマイヤー(一九四二二〇一九)のコード二重性(code duality)、記号的足場(semiotic scaffolding)に求められる。これらの理論や概念装置によって、記号論は、人間の言語から生命一般へと拡張された。生命は、単にエネルギーを消費する存在ではなく、それぞれの環世界において記号の意味を選択し、それを解釈し、機能環を通じて意味に基づく主体的な行動を遂行する存在として理解される。

"Semiotic Scaffolding of living systems", in M. Barbieri (ed.): Introduction to Biosemiotics. The New Biological Synthesis, Dordrecht: Springer 2007, 149-166.

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