京都日誌(455)
■9月8日、火曜日、曇り、秋雨。
雨に降り込められて、気分が上がらない一日だった。
午前中、身心調整、『週刊現代』を読む。かなり面白い。
週刊誌を比較的読むようになったのは、ここ5、6年くらい。
六本木の仕事をするようになって、週刊誌の報じる内容の重要性に気が付いてから。
午後から、書評論文『シオニズムの現在形、あるいは社会操作としてのシオニズム』の執筆。
凡そ、2分の1を書き上げた。
ここで、もっとも重要なことは、一極覇権から多極化へという、世界構造の変化という「地」と、シオニズムの変化(あるいは可視化)という「図」の関係であると思っている。
まだ、この関係は、よく見えてこない。
夜、8時を回ると、眠くなり、ベッドでヴィトゲンシュタインを検討する。
めったに飲まない珈琲を飲むと、やおらスイッチが入った。
後期ヴィトゲンシュタインでは、言語ゲーム論と家族的類似性という革新的なアイディアが中心となり、言葉の向こうの事態や事物を前提にして、それを言語は模型化する、という写像理論(存在論)は、言葉の使い方の一つにすぎないと自己批判されて、うち廃られていく。
後期の思想は、存在論や、それと関連する本質主義──物事にはそれを成り立たせている不変の本質がある──への根本的な批判となっている。
ここを、どう考えるかが、鍵になる。
言語ゲームは、たんに多種多様にあるというのではなく、ある場面や社会活動、構造の中で、その選択の範囲は、決まってくる。
ヴィトゲンシュタインは、生活形式(生活の様式、生活の形)という概念で、その規定性を捉えている。
生活形式は、文化と言い換えてもいい。
これは、目的定立を伴う社会的実践が行われる、地であり場であり空間でもあるだろう。
前期ヴィトゲンシュタインの言語論に於ける写像理論は、スタティックで受動的ではあるものの、存在を前提にしている。言語の意味は、この存在が与えた。
逆に、後期の言語ゲーム論は、存在論、あるいは反映論からは離れているように見える。
言語ゲーム論では、言語の意味は、「その言語がそのときその場でどう使用されるか」という使い方で決まるとされる。
ここで、気が付くのは、ヴィトゲンシュタインの問題関心が、言語とその意味だということであり、存在論も論という名が付くことからわかるように、言語で構築された理論である。
しかし、これはどちらも、人間独自の複雑で豊かなコミュニーションである言語に重きを置きすぎている。
信号が赤になれば、だれかとゐても、「信号は赤だ」とわざわざ口にするまでもなく、止まるし、買い置きのえのきにヘンな匂いがすれば、それは即、生ごみ入れに捨てる。
これらは、言語ゲームではなく、知覚と行動の関係が言語抜きにすでに構成された世界での話になる。
つまり、存在論というのは、必ずしも言語に媒介されなくても、外部に存在があるとして、そこからの知覚を受けて行動するときの、その行動様式や、その行動様式を要請する環世界全体のことである、と理解することができるのである。
共同体におけるコミュニケーションにおいても、当然、しぐさや目つき、雰囲気、身体反応といったノンバーバルな要素は重要である。
このように、言語をより広いコミュニケーションの一部と了解すれば、言語ゲーム論も存在論も、その有効性を失うことなく、それを社会的実践ゲームとして、実践性や身体性を、言語よりも先行的なものとして理解することで、言語ゲーム論も存在論も拡張的に理解できるようになるのではないか。
おそらく、ヴィトゲンシュタインの本質主義批判である家族的類似性も、社会的実践ゲームの観点から読み替えることができるだろう。
このアイディアが、科学基礎論として、有効かどうか、今後、検討して行きたい。