森澄雄の俳句 4
鶏頭をたえずひかりの通り過ぐ 『踊子』(昭和43年)
ここで詠まれた鶏頭が、子規の繊細な鶏頭なのか、燃えるようにグロテスクで力強い赤の鶏頭なのかで、句の印象は異なるが、一読したとき、後者の鶏頭が浮かんだ。
子規の鶏頭なら、ひかりは降り注ぐのがふさわしいが、あのダイナミックな鶏頭には、ひかりは、通り過ぎるのがふさわしい。
ひかりが通り過ぎるたびに、あの赤にひかりがあたり、次の瞬間には、赤はすこし翳る。
このひかりの元は、太陽であろうから、雲の動きがひかりの動きを生じさせているはずである。なので、ひかりは上から降り注いでいると考えるのが自然だろう。
では、なぜ、「たえずひかりの通り過ぐ」のか? 恐らく、この鶏頭は群生している。群生した鶏頭に、次々に、光と翳が生じている。ひかりが横に移動しているかのように。
この句は、「ひかりの降り注ぐ」とはしなかったことで、鶏頭のはるか上方にある秋の雲の絶え間ない速い動きが見えてくる。