往還日誌(358)
■11月30日、日曜日、8時半起床。掃除、洗濯のルーティーンを行う。花瓶ふたつに入れたミニ薔薇とりんどうの水を替えて、窓際の光のあるところに置く。
自然的時間存在のN1である植物は、たんなる人間の客体として扱うことができなくなった。その主体の環世界をできるだけ尊重している。そのせいか、花のもちがいい。
もちろん、害虫などは、主体があっても、オレ様の都合で、瞬殺しているわけだが。
京都では、毎日、掃除をしている。狭いからやりやすいというのもあるが、朝一番で掃除をすると、心身が整ってくる。
その後、ストレッチをしながら、深蒸茶を淹れて、句を作る。ここまで、ほぼ、毎日同じ。
きょうは、その後が、違った。
一日、ルカーチの翻訳に専念。
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ヘーゲルのドイツ語の文章は、異様に精密であるが、ルカーチが訳したアリストテレスも、それに劣らない。
今から、2000年以上も昔の古代人の知性の鋭さに、ある種の、怖れを抱く。
しかし、きょうは、アリストテレスの『形而上学』のたった9行を読み解くのに、丸一日かかった。
しかも、訳注だけで、これ以外に5頁も必要とした。
これこそ、難解な哲学書を読み解く醍醐味だと感じる向きもあるかもしれない。
だが、私は、そういう権威主義的な感覚は持ちあわせていない。
もっと、曖昧さを排除し、明晰さを確保したうえで、理解しやすくできるはずだと思っている。
アリストテレスには、ギリシャ語以外に表現手段がなかった。古代の自然言語で、あれだけの抽象度と精密さを兼ね備えることができたのは、たとえ、講義ノートや草稿だったとしても、私には、一つの事件としか思えない。
ヘーゲルは、古典数学を前提に、「数学は外的な表象による固定を本質とするため、概念そのものの内的運動を表しえない」「数学は連続的運動を捉えることができず、生成から抽象された“死んだ形”を扱うだけだ」と批判した。
しかし、どうやら、現代数学なら、運動・生成・変化の記述に向いていそうだという直感がある。
T-N-SやGTSMの記述において、この方向性を試してみたいと思うようになってきた。
やるべきことは山積また山積なんだが。