京都日誌(467)

 






■9月27日、日曜日、曇り、午後、秋雨。

終日、仕事。

3つ重なって、なかなか、険しい日々に。

9月の諸問題を解決して、気分良く、10月へ移りたい。

友人の作家、黄英治さんに紹介いただいた本が2冊到着。


この頃、植民地他者の聲を聴くことが、社会操作の呪縛を解く上で有効な手段になると、はっきり気づいた。

今までも、うすうすはわかっていたのだが、自分で一般社会操作論を考えるようになって、その確信は、より強くなった。

社会操作は、個人には社会化されており、社会には制度化されることで実装化されている。

一番やっかいなのは、それが、情動と強い結びつきがある、ということである。

我々は普通に生きているだけで、セイレーンの聲に絡めとられているのである。

社会操作は、それなしでは、社会、あるいは国家は成立しない、という意味で、現存の社会や現存の国家の再生産に必須の条件となっている。

この意味で、社会操作を問題にするということは、現存とは異なる、よりよい社会を問題にするということであり、それは、とりもなおさず、民衆の歴史への参画を問題にするということなのである。

最近、グラムシを読んでいて、こんな風に考えるようになった。

田畑さんは、グラムシの研究者は、ルカーチほどではないが、激減していると述べている。

私は、これを聴いて、グラムシの重要性を確信した。

学会のポスト市場で人気のない人ほど、重要だからである。

宮沢さんは、『他者の聲を聴く』の「はじめに」でこう書いている。

「戦後の日本政府は、独立(1952)と同時に、旧植民地出身者から国籍を剥奪し、日本国民=日本民族=日本人という同質性を強調した国民像を構築した。

いわば<同>の範囲を一気に収縮させたのだが、これは、旧植民地出身者の不可視化あるいは例外化をもたらし、”日本国民は日本人だけ(日本民族)だけ”という同質な国民像と、”この社会に暮らしているのは日本人だけ”という均質な社会像を、この国に暮らす人々の多くに内面化させる契機となった。

その結果、社会生活の隅々まで日本人であることが当然視される状況が生じ、在日朝鮮人にとっては同化(日本人化)の圧力となっただろう」(同書、p.5)。

近代のnation-state(民族国家)が、差別性と同化圧力を、原理的に持つのは、民族を単位として、国家を成立させるという成立機制にある。

日本国家のように虚構としての一民族国家ではなく、スイスやカナダ、ベルギーのように、多民族国家の場合もあるが、その場合、民族間の政治構造や、承認された民族以外のマイノリティが、歴史的被害存在として存在する。

この典型が、ウクライナにおいて、ウクライナ人から暴力的・制度的差別の対象となったロシア系民族の存在だった。これは、現在のウクライナ紛争の原因の一つになっている(ウクライナ紛争は、民族とは何かという問題も提示している)。

日本は、大日本帝国から、戦後、その空間を縮小させると同時に、その差別性(排除性)と同化圧力を、個人レベルでは社会化の強化として、社会レベルでは、制度化の強化として進展させてきたのである。

参政党という政党は、近代日本国家の戦後という時空間の政党的な表現とも言える。


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