■9月24日、木曜日、晴れ。
仕事は減ったはずなのに、なぜか増えている。いいような悪いような。
終日、仕事。
グラムシは、石塚先生があまり重視していなかったので、これまで、注目してこなかった。
しかし、先日の田畑さんのレクチャーを聞いて、その考えを改めた。
ルカーチ自身が、同時代人のグラムシをどのように考えていたか、調べていて、ちょうど、私が、今取り組んでいるルカーチの『社会的存在の存在論に向けて』のテクストの趣旨を、ど真ん中で射貫く、ルカーチの、1969年の、亡くなる2年前のインタービューを見つけた。
私は、この大作の日本語版を作成するにあたり、直感的に労働論から始めたが、その直感が正しかったことが裏付けられた。
また、このテクストが、科学基礎論でもあることも証明している。
インタビュアー「このことを、ご自身の哲学的発展にも当てはめますか。今日、1920年代のご自身の著作をどう評価していますか。それらは現在のお仕事とどのような関係にありますか」
ルカーチ「1920年代に、コルシュ、グラムシ、そして私は、それぞれ異なる方法で、社会的必然性の問題と、第二インターナショナルから受け継がれた社会的必然性の機械論的解釈に取り組もうとしました。
私達はこの問題を引き継ぎましたが、私達の誰も――おそらく私達の中で最も優れていたグラムシでさえ――それを解決しませんでした。私達は皆、誤った方向に進みました。
今日、当時の著作を、今もなお有効であるかのように復活させようとするのは、まったく間違っています。西側には、それらを『異端の古典』に祭り上げる傾向がありますが、今日の私達にそれは必要ありません。
1920年代は過ぎ去った時代です。私達が取り組むべきなのは、1960年代の哲学的問題です。私は今、『社会的存在の存在論に向けて』に取り組んでいます。これによって、以前の私の著作、とりわけ『歴史と階級意識』で、まったく誤った形で提起されていた問題を解決したいと考えています。
私の新しい仕事の中心にあるのは、必然性と自由、あるいは私の言い方では、目的論と因果性の関係という問題です。伝統的に哲学者達は、この二つの極のどちらか一方を基礎として体系を築いてきました。
彼らは必然性を否定するか、人間の自由を否定するかのどちらかでした。私の目的は、両者の存在論的な相互関係を示し、哲学が伝統的に人間を捉える際に用いてきた『どちらか一方』という立場を退けることです。私の分析の要となるのは、労働という概念です。
というのも、労働は生物学的に決定されていないからです。ライオンがレイヨウを襲うなら、その行動は生物学的な欲求によって、ただそれのみによって決定されます。しかし、原始人が石の山を前にしたなら、どの石が道具として使うのに最も適しているかを判断し、その中から選ばなければなりません。
彼は選択肢の間で選ぶのです。選択肢という概念は、人間の労働の意味にとって根本的です。したがって労働は常に目的論的です。労働は、選択の結果として目的を立てます(※目的定立にも人間の選択があり、その実現手段にも人間の選択がある)。そのことが人間の自由を表しています。
しかし、この自由は、物質世界の因果法則に従う客観的な物理的諸力を動かすことによってのみ存在します。したがって、労働の目的論は、常に物理的な因果性と結びついています。
そして実際、ある個人の労働の結果は、別の個人の目的論的な方向づけ、すなわち目的定立(Setzung)にとって、物理的な因果性の一契機となります(※別の人の目的定立を伴う労働実践の客観的条件になる)。
自然に目的論があるという信念は神学であり、歴史に内在する目的論があるという信念には、根拠がありませんでした。
しかし、あらゆる人間の労働には目的論があり、それは物理的世界の因果性の中に分かちがたく組み込まれています。この立場こそ、私が現在の仕事を展開している核であり、必然性と自由の古典的な二律背反を克服するものです。
ただし、私はあらゆるものを包み込む体系を築こうとしているわけではない、と強調しておきたいと思います。
私の著作の題名は――本文は完成していますが、今は冒頭の章を改訂しているところです――『社会的存在の存在論』ではなく、『社会的存在の存在論に向けて』です。その違いはおわかりいただけるでしょう。
私が取り組んでいる課題を十分に発展させるには、多くの思想家達による共同の仕事が必要です。しかし、先ほどお話しした日常生活における社会主義の存在論的な基礎を、この著作が示してくれることを願っています」
ここを読んで、グラムシをルカーチは高く評価していたことがわかった。
同時に、これまで、手探りで始めて、『社会的存在の存在論に向けて』と格闘してきた甲斐があったと非常に嬉しくなった。