若宮日誌(435)
■8月3日、月曜日、曇り、朝から、涼しくて驚いた。
風がまるで避暑地の風のように冷たい。
若宮へ帰宅後、ただちに、京都へ送る本の整理。4箱作る。
一ヶ月以上も空けると、用事がかなり溜まっている。
若宮へ戻って、オクラが天を向いて生ること、そのオクラは、朝採りたては非常に甘いことを初めて知った。
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のぞみでは、黒崎宏さんの1975年の論文、「『科学基礎論』の可能性」と、『圏論の道案内』を集中的に読む。
黒崎さんは、『ウィトゲンシュタインから道元へ 私説「正法眼蔵」』や『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』など、仏教とヴィトゲンシュタインをテーマにした一連の著作で有名だが、これまで読んだことはなった。
この論文の結論は、「科学基礎論には、2つある。1つは、『科学の基礎づけ論』。もう1つは、『科学の基礎洞察論である』」。
「科学の基礎づけ論」は、科学の経験的基礎づけ論ではなく、科学の哲学的基礎づけ論でもなく──この2つは、論理実証主義の歴史的失敗に帰結したと述べている。
そうではなく、「科学の基礎づけ論」は、第一に、科学の理論的な基礎づけ論──それは、より基本的な科学による理論的な説明、たとえば、ニュートン古典力学のアインシュタイン相対論による説明のように──、第二に、科学の公理化──科学の個々の法則を公理によって基礎づけ、その意味で法則の体系としての科学を理論的に基礎づけると、述べている。
これらは、哲学者の仕事ではなく、科学者か、せいぜい、論理学者、数学者の仕事だと述べている。
もう一つの「科学の基礎洞察論」というのは、いわゆる、科学哲学のことであり、それは、科学の基礎的な概念や法則への洞察、科学全体の構造や、科学的説明・予測の性格、理論の受容または破棄の条件、科学の背後にある世界観や方法論、科学人間観や科学と社会の関係などの洞察を指している。
このとき、洞察と言ったが、そのアプローチは、黒崎さんは、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』の中の言葉「考えるな。見よ!」を、イメージしている。
つまり、仮説を立てて、実験し観察し経験的にテストするような、考える行為ではなく、見る行為だという。
考えるのは哲学者の仕事ではなく、科学者の仕事だというのが、黒崎さんの主張になる。哲学者の仕事は、「事実を見、ありのままを記述し、よって哲学的迷妄に気づかせてくれる人」だということになる。
哲学的迷妄に気づかせてくれるというのは、ヴィトゲンシュタインの仕事の目的そのものと重なる。
ただ、異論もある。事実を事実として、扱うにはそのための観察枠組み・記述枠組みが前提になる。
その観察・記述枠組みは、社会的・歴史的・文化的・政治的な生成物なので、これら自体の観察も、必要になる。
ありのままを記述することができるとするとすれば、それは素朴すぎる。この点は、ヴィトゲンシュタインの主張とは異なるように思う(だが、このありのまま、というのは、むしろ、現象学で言う、当事者にとってのありのままなのかもしれない)。
この黒崎さんの言う、科学の基礎洞察論=科学哲学は、ヴィトゲンシュタインの没する前の2年間に書いた覚え書きから編纂された傑作『確実性の問題』や、科学社会学や知識社会学と一部かぶる。
科学をめぐって、N先生やTさんと議論しているところなので、自分が科学基礎論として、何を考えているのか、あるいは、何を考えるべきなのか、明確にする意味で、かなり参考になった。
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『圏論の道案内』は、面白い。
対話で圏論についての道案内をするという趣向で、癖のあるふたりやりとりが楽しい。
社会操作論の3類型──情報・知識操作、感情操作、構造操作──を、圏論の考え方で、明晰に結合し、社会全体の再生産論へ組み込むことで、一般社会理論と接続するというのが、大まかな見取り図になっている。
他方、ユクスキュルの環世界を、その身体論によって、人間の環世界として、展開したのが、メルロ=ポンティであり、ユクスキュル─(ハイデッガー)─メルロ=ポンティなどの系譜は、この社会操作を、内側から、つまり、その社会操作を受けている当事者の環世界(生活世界とも言えるが)から、知覚標識や作用標識、機能環などに注目することで、分析的、かつ身体的に、社会操作の内実を記述することを可能にするだろうと思っている。
この点は、京都日誌(424)で、T-N-S Theoryとの関りで、少し記述した。
まだ、わからないことが多く、手探り状態が続くが、早急に結論は出さないで、ジョン・キーツの言う、negative capabilityのスタンスを維持するのがいいのだろう。