京都日誌(440)
■8月14日、金曜日、積乱雲ある晴れ。
午前中、洗濯。
午後から、ルカーチの仕事。
夕方、スギ薬局とイズミヤへ買い物に行く。
明日の8月15日の敗戦忌を前に、国立公文書館アジア歴史資料センターが、「昭和100年インターネット特別展」第2回を公開した。
きょう公開されたのは第2回「日本とアジア諸国の戦後」であるが、第1回は、「『写真週報』にみる昭和戦時下の日本とアジア」である。
『写真週報』というのは、 内閣情報部(のち内閣情報局)により刊行された週刊のグラフ雑誌のことで、発行部数は、昭和16年(1941年)3月時点では約20万部だった(当時グラフ誌で最も部数の多かった『アサヒグラフ』でも数万部に過ぎなかった)。
読者の多くは男性・青少年であった。読者の男女別比は男性約62%、女性約38%、同じく年齢別比は25歳までが65.6%、26歳から60歳までが30.3%、61歳以上が2.1%。
つまり、皇軍兵士として、すぐに戦場に出る徴兵年齢の若者が読む写真週刊誌だった。この雑誌は、その意味で、現実の戦場の報道ではなく、戦争プロパガンダの最前線を担っていたと言っていいだろう。
アジア歴史資料センターは、貴重な一次資料を、この他にも、多数公開している。
たとえば、大東亜共栄圏という小トピックで紹介されている一次資料に、昭和16年(1941年)8月15日付の『部報』という雑誌(台湾総督府臨時情報部発行)がある。
ここに、「大東亜共栄圏の確立」という記事があり、陸軍省報道部による「聖戦四年」という文章からの引用によって、「大東亜共栄圏」の概念が述べられている。
この部分を読むと、非常に「いいこと」が、相手国の意向を無視して、その「いいこと」を押し付けるようにして、救世主気取りで、国際法による根拠抜きに、一方的に書いてある。
「大東亜共栄圏とは、政治的に言えば、まず、日満支を中心として、印度支那半島、マレー半島、蘭印その他を広く包含する地域である。
経済的にいうと、日満支の経済ブロックを発展させて南方資源を包括した一大経済ブロックをさすのである。
(中略)
もとより、東亜は英米流の帝国主義的支配から解放され、その間に、いかなる搾取も抑圧もあるべきではない。各民族は、そのたくましい意力と知力をもって活動し得るものでなければならぬ。
(中略)
我々はまず、東亜の諸民族を、東亜における唯一の強力な道義国家日本を中心に結集させ、その力によって、東亜における欧米人の触手を一掃しなければならぬ。
(後略)」
ここを読むと、現代の民主主義の救世主を気取って、イランを始め、相手国の民衆の意向を無視して、一方的に、政権転覆や戦争をしかけてきた米国とそっくりである。
その目的が、ウクライナや、ベネズエラやイランに見られるように、相手国の資源にあることまでそっくりである。
この大東亜共栄圏という理念は、1940年の8月1日の談話の中で、松岡洋右外務大臣が「大東亜共栄圏」という言葉を用いたことで、この言葉が広まったと言われている。
では、この東亜唯一の道義国家日本は、1940年当時、何をしていたのだろうか。
理念は、必ず、その現実形態を持つ。
1940年当時のこの大東亜共栄圏の理念の現実形態を、もっともよく表現しているものの一つが、731部隊である。
NHKが、2017年に放映したNHKスペシャ「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」が、その内実を具体的に伝えている。
この番組は、1949年に旧ソ連のハバロフスクで行われた731部隊の裁判の音声記録をもとにしている。
関東軍防疫給水部隊、つまり、731部隊(1936年発足、最大3000人の隊員を擁し、年間予算は現在価値で300億円)は、日本軍と中国東北部で抗戦し逆スパイなども断ったために、匪賊とレッテルを貼られた中国人・ロシア人捕虜、およそ3000人に対して、ハルビンの郊外20キロの研究所で、生きたまま人体実験を行った。その中には、女性や子どももゐた。
この研究所のスタッフは、日本や植民地から有能な医学者を中心に集められ、731部隊長の石井四郎大佐が、京都大学医学部出身だったことから、京大医学部からの医学者が最も多い11名となっている。
「ハルビンへ行け」と脅迫を含む手段で、若い医学者の弟子たちに命じたのが、京大医学部長の戸田正三(戦後、金沢大学学長)だった。技師という将校扱いで731部隊に派遣された医学者たちが、京都大学から11名、東京大学から6名、慶應義塾大学から2名、北海道大学から1名などとなっていた。
細菌兵器の開発と実戦使用(中国中央部で中国軍に3回細菌爆弾使用、民間集落にもペスト菌=ペスト蚤で使用、パラチフス菌=饅頭に注射して住民に与える、コレラ菌=水源、井戸、貯水池に散布)や人工凍傷の研究など。
これらの細菌兵器開発や凍傷研究を行った田部井和(かなう)や吉村寿人らの技師たちは、1945年8月9日のソ連軍侵攻時に、特別列車で即座に日本に帰国し、戦後は、京都大学教授となっている。罪は一切認めていない。
米軍は、戦後、人体実験のデータと交換に技師たちの責任を免除している。
ただ、1949年にソ連で行われたハバロフスク裁判で、罪の大きさを自覚し、生まれ変わったら、人類に尽くしたいと涙ながらに述べた医学者、柄沢十三夫(人体実験に使用した細菌培養の責任者)は、刑期を終えて、日本への帰国直前に自殺している。日本には、82歳の母と妻と2人の子どもを残していた。
京都大学の戦後のイメージは、湯川秀樹博士を筆頭に、ノーベル賞学者を輩出し、数理解析研究所や基礎物理学研究所など、先端的でリベラルな研究機関を擁する大学というイメージがある。
だが、戦中・戦後の戦争遂行の中枢に協力した暗黒の歴史がある。西田幾多郎も田辺元も、大東亜共栄圏や大アジア主義のイデオロギーの生産に深く関与し、軍と密接に協力していた。
そして、731部隊の人体実験を、事実上、計画・実施していたのは、京都大学医学部出身の石井四郎部隊長と戸田正三京大医学部長である。
東京大学が、明治以来、日本の近代化=膨張主義=植民地体制のための官僚と技術者の養成を主な任務としていたのと対照的に、京都大学は、その創造的な知性を、創造的な悪の実現へと向けてしまったのではないだろうか。
戦争は、その渦中にゐると、それがどれだけ大きな悪であっても、気が付かない。戦争が終わったあとに罪の大きさに気が付く。
それを、典型的に示したのが、731部隊の柄沢十三夫という医学者の自殺だったと思う。
では、なぜ、気が付かないか? それは、殺す相手が、自分と同じ人間ではないからである。
相手が人間ではないものとするように、兵士の認識と行動を統制する社会体制が組まれ、兵士自らも自らを騙すからである。
匪賊という表現やマルタという言い方に、それは、端的に現れている。
現代で、それがもっとも典型的に現れているのが、イスラエル兵のパレスチナ人に対する認識と行動である。
しかし、どれだけ、社会体制が兵士を統制しても、兵士はいつか我に返る。
イスラエル軍では、現在、自殺者が十数人と、例年より多く、国内問題となっている。
日本社会にも見られるように、戦争トラウマは、世代を超えて、家族の問題として現れ、苦しみは、世代を超えていく。
これは、人間は、そもそも戦争をしてはいけない存在だということの証明ではないか。
そして、このトラウマを引き受けるのは、殺す方も殺される方も、戦場の兵士たちであって、それを命じた国家指導者ではない。
昭和天皇に、戦争トラウマはあったろうか?