京都日誌(447)
■8月24日、土曜日、曇り。
午前中、身心調整。
その後、京都大学大学院の細見和之教授の講演会へ。
きょうの講演は、「近代と過剰なるもの」というテーマで、フランクフルト学派の第一世代、特に、アドルノとホルクハイマーの哲学の展開において重要で、一見、異質な三人──マルクス(剰余価値論)、ニーチェ(力への意志)、フロイト(リビード)の理論に、近代における過剰なるものを見て、フランクフルト学派から、今、何を学べるか?という問題意識に貫かれたものだった。
細見教授が強調していたことの一つは、マルクス(唯物史観に基づいてブルジョア思想を徹底批判)とフロイト(人間の夢や無意識を探求したブルジョア的な思想家)という、当時においては、水と油のように、異質な思想家と見られていた二人を、フランクフルト学派が、統合した点であった。
強権的な支配者に大衆が嬉々として従う問題の解明には、家庭におけるイデオロギー形成メカニズムを解明する必要があり、そのためには、フロイトの精神分析が必須だった、という。
ニーチェのフランクフルト学派への統合に於いても、ニーチェは、社会主義思想を弱者のルサンチマンに基づく「奴隷道徳」と批判し、人間の個性や卓越性が奪われた画一化された社会への批判──これらは、アドルノとホルクハイマーが亡命していた合衆国にもあてはまると考えた。
私が特に、面白かったのは、このマルクス・フロイト・ニーチェの近代の過剰なるものを、ジョルジュ・バタイユが、『呪われた部分』(1949)で、将来的に展開可能な形で提出している、という議論だった。
バタイユの唱えた「普遍経済学」は、生産と蓄積ではなく、消費と蕩尽に焦点を当てた試みであり、第一次大戦と第二次大戦は、この過剰なものの最悪の蕩尽形態だとする。
バタイユの議論においては、人類史における過剰なるものを根底で支えているのは、太陽エネルギーである。
要するに、バタイユの思想は、「生命=太陽エネルギーを内部に蓄える仕組み、地球で生じた生命体は降り注ぐ太陽エネルギーを糧として進化を遂げ、さまざまな動植物として発展してゆき、ついには人類が生じた、私たち自身が太陽のエネルギーの保存形式」ということになる。
過剰なるものの太陽エネルギー根源論は、興味深いものであるが、バタイユ自身は、こう述べている。
「生命の最も普遍的な条件について簡単に触れておきたい。決定的重要性をもつ一時実に注意を惹くだけにとどめよう。つまり、太陽エネルギーが、その過程発展の根源であるということだ。我々の富の源泉と本質は日光の中で与えられるが、太陽の方は返報なしにエネルギーを──富を──配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない」(バタイユ『呪われた部分』生田耕作訳、二見書房、1973年、35頁)。
(以上の説明は、きょうの細見教授の配布したレジュメをベースにしている)
これは、ひとつの見方だとは思うが、私は、意見を異にする。
それは、社会的存在である人間と自然的存在である自然との連続性だけを強調しすぎていると思うからである。
この二つには、断絶と連続の二面性があると私は考えている。
アドルノも、ホルクハイマーも、啓蒙自体が一つの自然だと言い切るところにまでゆくと細見教授は述べていた。
この点で、バタイユの思想とフランクフルト学派第一世代は、響きあっていることがわかる。
私は、労働活動と宗教活動は、社会的存在に固有のもので、自然的存在にはない、と考えている。
その理由は、人間存在が、自然設計だけではなく社会設計も持つため、ここにMetaphysikとPhysikの緊張関係があらかじめ書き込まれているからである。
ただ、バタイユの「普遍経済学」という消費と蕩尽にフォーカスした経済学は、交換価値だけに特化した、あるいは、情報に特化したポストモダンの金融経済を読み解くうえでは、有効かもしれない。この点は、今後、勉強してみたい。
私の意見としては、マルクス(剰余価値論)、ニーチェ(力への意志)、フロイト(リビード)の理論を、唯物論的に読み解くために、近代をどう考えるか、という点が重要になると思う。
近代とは、私の定義では、資本主義体制・植民地体制・民族国家(nation-state)体制そのものであり、このトリオロジーの経済学的表現が、マルクスの剰余価値論であり、その心理学的表現が、フロイトのリビード論であり、その政治学的表現がニーチェの力への意志だと、唯物論的に理解できると思っている。
マルクスの剰余価値論は、国内では労働者階級や被差別集団という収奪の対象集団を形成しつつ、国外の植民地では、資源と労働力を収奪していく運動が存在することに対応している。
フロイトのリビード論は、ウイーンが産業革命に突入して社会的不安期に、神経症が多発したことから、フロイトの無意識の領域の探求は始まっている。
そして、権威主義文化圏においては、超自我が抑圧メカニズムとしてリビードを抑え込むが、このメカニズムは、実は、同一の文化コミュニティー内部だけで働くのであって、植民地ではまったく働かず、リビードは、主に物理的な暴力という形で植民地他者に向かって解放されてしまう。この現実をリビード論は表現していると見なせる。
ニーチェの力への意志は、ニーチェ自身の意図とは異なっていても、これは、まさに、相手を占有・併合しようとする侵略・植民行為そのものと一体化してしまう面を持っている。
だいたい、このようなことを話した。