社会操作の一般理論に向けて

 






社会操作の一般理論に向けて

                             尾内達也

 

1 はじめに

はじめに、本稿の目的と位置づけを明らかにしたい。本稿は、季報『唯物論研究』一七一号に寄稿した「『社会操作論』に向けて」(以下、TSM)の続編となる。本稿の表題を「社会操作の一般理論に向けて」としたのは、社会操作という社会の中の特殊個別の現象の理論ではなく、社会操作は、社会において非局所的であり、同時に、社会そのものの成立に不可欠な要素だという認識、言い換えると、社会操作は社会の再生産メカニズムの前提であり結果であるという認識の下で、社会操作を中核にした一般社会理論が考えられるのではないかという考えからである。

本稿の目的は、第一に、経験的研究にリンクするために、社会操作の類型化(情報操作・構造操作)と、その定式化および命題化を試みる。

この場合、定式化とは、曖昧な概念・記述を、場合によっては、記号・図式・数式などを用いて、構造・変数・関係として書き換え、命題として真偽を問う前に、「何が何として扱われるのか」を明確化することを意味する。これは、言い換えれば、理論が扱う対象空間を切り出す作業である。

命題化とは、定式化された要素の間において、真偽を問える主張を立てることを意味する。命題は、経験的あるいは論理的な反証可能性・検証可能性をもつ。

次いで、社会操作の成り立つ原理的な根拠を明らかにする。

最後に、一般社会理論へ社会操作を組み込むアイディアについて説明する。

TSMにおいて、社会操作には、情報操作と構造操作の二つの類型があると指摘した。本稿では、まず初めに、情報操作とは、その根本において、時間と空間の操作であることを明らかにする。

このテーゼを論証するために、恐らく多くのみなさんにとって、衝撃的な社会操作からお話ししようと思う。

その前に確認しておきたいのは、そもそも、社会操作をどう考えるか、という点がある。

TSMで定義したように、社会操作とは、国家の「一般意思(人民全体の意思)」の実現を疎外するメカニズムである。

このルソーの提起した「一般意志」を、全体主義的である、あるいは全体主義の起源であるとする議論もある。この議論は、主に第二次世界大戦中から戦後にかけて、フリードリヒ・ハイエク(一八九九―一九九二)やカール・ポッパー(一九〇二―一九九四)、アイザヤ・バーリン(一九〇九―一九九七)、J・L・タルモン(一九一六―一九八〇)など、ファシズム批判やスターリニズム批判の文脈で、個人の自由を重視する思想家たちから提起された。

たとえば、ポーランド生まれのユダヤ人で、ヘブライ大学の近代史の教授、J・L・タルモン(一九一六―一九八〇)は、『全体主義的民主主義の起源』(一九五二)の中で、ルソーの立場を『全体主義的民主主義』として理解するのがもっともいいと主張した。

タルモンは、『全体主義的民主主義の起源』(一九五二)において、全体主義的民主主義を、「全体主義的民主主義とは、政治において唯一にして排他的な真理が存在するという前提に基づく民主主義である」と定義している。その上で、ルソーにこう言及する。

「ルソーは、自由を一般意志への服従と同一視し、さらに一般意志を理性と同一視した。その結果、これに従うことを拒否する者は、非理性的であり、したがって自由でないと宣告されることになった」。

さらに「人は自由になるために強制されなければならない、というルソーの有名な逆説は、自由が、理性的であると想定された集団意志への服従として定義される場合にのみ理解可能となる」と結論する。

ここから、「ある政治的教義が真理の独占を主張するや否や、異議は単なる誤りとしてではなく、道徳的堕落あるいは反逆として扱われることが不可避となる」として、フランス革命のジャコバン派の思想へとルソーがつながることを明示している。

タルモンは、「全体主義的民主主義は、民主主義の否定ではない。民主主義が絶対的な政治的真理の実現として構想されたとき、その論理的帰結なのである」として、「ルソーは決して専制を意図したわけではない。しかし彼の学説は、自由の名において専制を正当化しうる概念的枠組みを提供した」と結論する。

タルモンは、一般意志を、だれが、どんなときに、どのように形成するのかを問題にしない。あらかじめ、ジャコバン派のような、特定の集団が、恣意的に自由と理性と民主主義の名において、一般意志を騙る地平が、タルモンの思考の出発点となっている。

このように、タルモンは、ルソーの一般意志を、一般意志とは異なる個別意志を排除するだけでなく、「自由と理性と民主主義」の名において、個別意志を強制的に「一般意志」という名の全体意見に服従させると見なすのである。

これは、タルモンが、個別意志の総和を一般意志と見なしていることを意味している。というのは、彼の議論では、一般意志とは異なる、あるいは、対立する個別意志が原理的に存在することになるからである。その結果、個別意志を排除、あるいは、抹殺した上でしか、一般意志は成立しないというロジックになる。

タルモンは、ルソーの一般意志を歴史化された現実形態として問題にしていると言えるのである。

ただし、このルソーの一般意志の現実形態という問題設定は、問題そのものとしては、非常に重要であり、アクチュアルでもある。

しかし、ルソーの思想に即すと、その意志は一般意志(la volonté générale)ではない。それは、ルソーのカテゴリーでは、全体意志(la volonté de tous)になる。

全体意志は、個別意志(les volontés particulières)の総和であり、私的利害の集積であるため、一般意志とは異なる個別意志を常に内包する。ルソーの一般意志は、「多数決のような多数の意志の集積した意志」ではなく、誰もが「それが正しい、あるいは、それが公共の利益だ」と認めざるを得ない意志を指す。

ルソー自身は、この一般意志を、こう述べている。

「全体意志(la volonté de tous)と一般意志(la volonté générale)のあいだには、大きな相違があることも多い。後者は共同体の利益だけに関心がある。前者は、私の利益に関心がある。それは、個別意志(les volontés particulières)の合計でしかない。しかし、これらの同じ意志(全体意志)から、相殺し合うプラス部分とマイナス部分を除けば、その相違の合計として、一般意志が残ることになる」(ルソー『社会契約論』(ルソーの引用は拙訳。以下同じ)

たとえば、ある村で道路を作るかどうかを話し合っているケースを考えてみよう。Aの個別意志は「便利になるから、自分の家の前を通ってほしい」という意見である。Bの個別意志は、「騒がしくなるから、自分の家の前を通るルートは止めて欲しい」という意見である。Cの個別意志は、「増税は嫌なので、とにかく安く建設してほしい」という意見である。

これらはすべて、個別意志であり、村人全員が、このA、B、Cのどれかを主張したとした場合、タルモンは、Aが一般意志となったとき、BとCの個別意志は排除され、Aの個別意志に全員の個別意志が強制的に統合されると考える。

しかし、ルソーは、A、B、Cの個別意志から「共通の利益」に重ならない過不足分を消去した後に残るものを一般意志と考える。この例でいえば、「道路を作る」ことである。これが公共の利益として、村人全員が認めざるを得ない一般意志になる。

では、「自然破壊になるから道路建設は要らない」というDの個別意志があった場合、どうなるだろうか。

このAからDまでの個別意志のどれかを持つ、村人の住むこの村の一般意志は、「道路を建設する」だろうか、「道路は建設しない」だろうか。

もちろん、「このとき、この問題について、この村には一般意志は存在しない」のである。

 タルモンは、この存在しない一般意志を、特定の集団によって存在すると擬制された全体主義体制を問題にしたと言える。

 タルモンの問題提起は、一般意志だと現実に主張された意志というものが、いかに、危ういものであるかということを逆照射している。

ルソーの一般意志の概念は、わかりにくい。そのわかりにくさは、それが、歴史的な記述概念ではなく、規範的な概念であるところから来ている

本稿で用いる「一般意志」も、経験的に常に存在するものではなく、存在しない場合を含む規範概念として理解される。

ルソーは、ジュネーヴ共和国の州民集会での意思決定を、小規模な州、住民の直接集会による立法、代表制が最小限という点で、一般意志実現の歴史的なモデルとして、高く評価している。

この例からもわかるように、ルソーの一般意志の実現には、コミュニティーの適正な人口規模が条件になる。

官僚制や軍・警察組織、企業が高度に発達し、原発村のような国家利権村集団が国家を騙って出現し、科学技術や宗教が国家構成原理の一つとして深く組み込まれた、複雑で大規模な国家形態、しかも、対外的には、経済・軍事同盟でブロックが形成され、同時に、産業面では世界的なサプライチェーンを構成した、二十一世紀型の民族国家(nation-state)を、十八世紀の人、ルソーは想定していない。利害が何重にも複雑に絡み合う現代の国家において、特定の問題で一般意志が実現することは、困難を極めるだろう。

人民の一般意志の実現を疎外するメカニズムを、社会操作と定義するとき、ルソーの一般意志の概念の規範性を、社会操作の概念は継承することになる。このため、「道路を建設する」という一般意志に見られるように、本来は生じないはずの人民の意見の分断や派閥、私的利害を、人為的に生成・増幅させるメカニズムとして、社会操作の概念は、具体的に、定義することができる。

このように、社会操作を定義したとき、この社会操作を解体することで、理論的には、全体意志が一般意志に近づくことになる。この点で、社会操作の概念は、ルソーの主張そのものとは異なり、熟慮民主主義などの全体意志の形成を理性的に図る行為や制度を否定するものではない。むしろ、一般意志に近づける形でそれらを強化する機能を持つと言える

ここまでを定式化すると次のようになる。 

【定式1 定義】社会操作(Social Manipulation)とは、国家の「一般意思(人民全体の意思)」の実現を疎外するメカニズムである。

【定式1.1 定義】より具体的に言えば、社会操作とは、一般意志に生じないはずの人民の意見の分断や派閥、私的利害を、人為的に生成・増幅させるメカニズムである。

【定式2 分類】社会操作には、情報操作(Knowledge/Information Manipulation)と構造操作(Structural Manipulation)がある。

【命題1】社会操作が解体されることは、全体意志が一般意志に近づくための必要条件である。


2 時間・空間の操作としての情報操作

 ロシアによる情報操作は、実態の知識なしに、そうしたものとして、広く受容されているので、あえて、普段は話題にならない逆の側のゼレンスキーを例にとるが、ウクライナのゼレンスキー大統領(この呼称も、その正統性について、ウクライナ国内外で議論がある)は、二〇二五年十二月十二日に、東部前線北端のクピャンスクで撮影した自撮り動画をXに公開し、こうポストした。

 「本日は、クピャンスク戦線に赴き、ウクライナのために任務を遂行している我が軍の戦士たちと共にいます。ロシア軍は、クピャンスクを執拗に攻撃しましたが、現実はすべてを物語っています。私は部隊を視察し、彼らを称賛しました。戦士一人ひとりに感謝します! 君達を誇りに思います! そして陸軍全体に感謝する──今日は君たちの日です!」

 クピャンスクは、ウクライナ東部のハリキュウ州にある人口二万五千人の都市。この都市は、ウクライナ東部を結ぶ鉄道ハブで、兵站(補給・輸送)に直結し、ドンバス方面やハルキウ州東部への前線補給拠点になり得るため、両軍が重視してきた。

 ゼレンスキー大統領は、この書き込みとともに、背後に「クピャンスク」という文字を形取った石碑があり、ウクライナの国旗、ドローン対策用ネットなどが映っている動画もポストされている。つまり、ゼレンスキー大統領は、クピャンスクが、現在、ウクライナの支配下にあると主張しているのである。

 この動画は、ロシア側の情報を否定するためにポストされている。

十一月二十日に、ロシアのワリエリー・ゲラシモフ参謀総長は、プーチン大統領に「クピャンスクを制圧した」と報告し、また十二月二日にも、プーチン大統領が、クピャンスクのオスコル川の左右両岸が「ロシア軍の完全な支配にある」と述べている。

どちらの主張が正しいのだろうか。

実は、このゼレンスキー大統領の動画が拡散された直後から、ロシアのメディアやブロガーなどが、すぐにその撮影場所を特定した。この動画の場所は、クピャンスク市内ではなく、市内から南西部の郊外に行ったウクライナ軍の支配地域で行われたのである。

しかもその後、ロシア軍のドローンがこの石碑の現場付近を撮影した動画が公開され、ゼレンスキー大統領の背後に映っていた石碑の形、ドローン対策用ネットの形もだいぶ、現実とは異なっていることが判明している。そればかりか、現地のウクライナ人女性兵士が、この現場を撮影した映像を公開し、その様子はロシア軍のドローンが撮影したのとまったく同じ状況であることが確認されている。

十二月十四日付のロシアの軍事ニュースサイト『ミリタリー・アフェアーズ』は、こう報じている。

 「クピャンスク上空で撮影されたドローン映像により、ゼレンスキー大統領が十二月十二日に公開した動画が、主張されている時期よりも前に撮影された可能性があることを示す、不一致点が明らかになった。

十二月十二日にウラジーミル・ゼレンスキー大統領が公開し、クピャンスクで撮影されたとする動画は、実際には、それよりかなり以前に撮影されたものである可能性がある。

テレビ業界の用語では、このように後日使用するため事前に収録された映像は、『缶詰』と呼ばれることがある。

十二月十三日、テレグラムチャンネル『ロシアの春の戦争特派員(VRV)』は、ロシア軍の無人航空機(UAV)が撮影したドローン映像を公開した。

この映像は、ゼレンスキー大統領が自身の動画を撮影したとされる場所と同一地点をとらえたものだとされている。

同チャンネルによれば、ドローン操縦者は、クピャンスクから約一キロメートル離れたハルキウ通り沿いにある道路脇の石碑を撮影しており、そこは、前日にゼレンスキー大統領がセルフィーを撮ったとされる背景そのものだということである。

ドローン映像を検証した結果、テレグラムチャンネル『戦争特派員』は、ウクライナ大統領の動画は公開日よりもかなり前に撮影されたか、あるいは背景が差し替えられて使用された可能性が高いと結論づけた。

 この判断は、両映像の間に見られる複数の視覚的な不一致にもとづいている。

十二月十三日に撮影されたドローン映像では、石碑に書かれた『クピャンスク(Kupyansk)』という文字の一部が欠けているのに対し、ゼレンスキー大統領の動画では、それらの文字がはっきりと確認できる。

さらに、道路上に張られていた対ドローン用のネットについても、ドローン映像では破れて地面に落ちているのに対し、ゼレンスキー大統領が公開した動画では、そのネットは無傷の状態であることが確認されている。

軍事ブロガーのユーリー・ポドリャカ氏もまた、ゼレンスキー大統領の動画が公開直前に撮影されたものではあり得ないとの見方を独自に支持した。

同氏は映像に映る道路の状態に注目し、現状では車両の通行が危険なほど損傷していると指摘している。

一方で、ゼレンスキー大統領が訪問したとされる時点では、道路は比較的良好な状態に見えた。ポドリャカ氏は、これほど深刻な損傷が、わずか一日の間に発生したとは、ほとんど考えられないと主張している」

このように、物的証拠を元にしたロシア側の検証を見ると、ゼレンスキー大統領が、ウクライナ軍がまだクピャンスクを支配していることを、世界に示すために、時間と空間の情報操作を行った可能性が高いのである。

 ロシア軍ももっとひどい情報操作をしているではないか、ロシア軍の方がはるかに深刻だといった議論もありえるが、ここでは、その点に立ち入らない。問題は、どのような操作形式が使われているかであり、この事例は、情報操作の一つの典型としての時間と空間の操作を明示的に表している

 この例に即して言えば、ウクライナ軍がクピャンスクを支配していた過去に撮影した映像を、公開当日のものと偽り(時間操作)、クピャンスクという文字を背景にした動画は、クピャンスクから約一キロメートル離れたハルキウ通り沿いにある道路脇の石碑を撮影していた(空間操作)、ということである。

 このように、時間と空間の操作が一体で行われることもあるが、時間操作だけ、空間操作だけ、個別に行われることもある。

 これらは、全体の情報を、操作する主体に都合のいい部分だけにフォーカスしたとも言える。この例でいえば、過去から現在に流れる全体の時間の流れを、過去の、ゼレンスキー大統領に都合のいい一点(ウクライナ軍がクピャンスクを支配していた時期)で切り取り、それを現在に挿入したことで、ウクライナ軍によるクピャンスク地域全体の支配権の持続を演出した。

こうした社会操作は、全体から部分を切り取るため、「切り取り」と呼ばれている。この場合の全体とは、歴史などの時間である場合や、地理的・情報的な全体空間であることもある。これは、全体性そのものを不可視化する操作と言うことができる。

 たとえば、ウクライナ紛争の起点は、二〇二二年二月二十四日のロシア軍のウクライナ侵攻時点で、固定して語られてきた。それを語っている主体は、ウクライナのゼレンスキー政権とそれを経済・軍事的に支援する、日本を含む西側諸国政府、および国家と経済的・政治的な国家利権村を構成する要素の一つである、西側のメインストリーム・メディアである。

 たとえば、二〇一四年のユーロマイダン・クーデターに続くドンバス戦争など、これ以外の起点を語ると、ロシアのプロパガンダとして封殺される。この結果、紛争の原因論を冷静に語ることは妨害され、誰の眼にも明らかな、ロシア軍による地上侵攻を、力による現状変更=悪として語られてきた。

 原因をどこまで遡り、どこに起点を置くか、という議論は、問題の根本的な解決、言い換えれば永続的な平和構築のために必要不可欠な議論である。これが、社会操作の結果、四年も妨害されてきたことは、たいへん深刻である。

 このように、情報操作は、出来事Aと出来事Bの間の因果関係の社会的な理解を妨げる

 以上のように、情報操作とは、時間と空間の操作であり、それは、全体と部分の関係性を操作することと定式化できるのである。したがって、情報操作は、虚偽の流布に限らない。真実であっても、時間・空間・全体性から切り離された部分的提示は、社会操作として機能しうる。そして、情報操作は、戦時に限らない。国家や企業、メディア、教育機関など、あらゆる制度に適用可能である。

【定式4定義】情報操作とは、時間と空間の操作のことである。

【命題2】情報操作は、全体と部分の関係性を操作し、全体性を不可視化することで、社会操作を実現する。

【命題2.1】情報操作は、出来事Aと出来事Bの間の因果関係についての社会的理解を、歪曲または制限することによって、その適切な把握を妨げる。

 次に社会操作のもう一つの類型である「構造操作」について議論する予定だったが、すでに、この時点で一万字を越えており、日米安保条約を一つの社会システムとして議論する課題や象徴天皇制を戦後最大の民衆操作装置として議論する課題、構造操作としての靖国神社などは、別の機会に譲りたい。

 情報操作が短期的で可逆的であるのに対して、構造操作は、長期的で制度的、不可逆的であるため、情報操作のように、検証することが難しく、より重要度が高いと言える。

 

3.社会操作の存立メカニズム――ヘーゲルの「Reflexion(反省)」概念で読み解く

 情報操作における、情報と知識の違いについてどう考えるべきだろうか。

 ドイツの知識社会学者、ニコ・シュテール(一九四二―)は、情報と知識は分ける必要があり、この二つを分けることには、利点があるとして次のように述べている。

「いろいろな要因の中でも、情報と知識の意味合いが徐々に変わってきたという点を考えると、情報と知識のあいだには、たった一つの違いしかないと述べるのは、今や誤解を招くだろう。最初に情報と知識には共通の属性があると強調しておくのも重要である。

もっとも重要な共通の属性は、情報も知識もそれ自身で根拠づけることができず文脈に依存するという点である。情報も知識もコミュニケーションの対象になるのは、自らは真実だと主張したいがためである」。(引用は拙訳。以下同じ。傍点は筆者。ニコ・シュテール『自由は知識の娘』より)

 情報も知識も、自らを自ら自身で根拠づけることができない。言い換えると、情報も知識も原理的根拠を持たず、文脈に依存するのである。

 これは、情報と知識が、そもそも操作性を帯びることの根拠となっている。

 真実性が文脈に依存するので、文脈を変えれば、虚偽が真実に反転するからである。

 ニコ・シュテールは、情報と知識の違いについて、次のように述べている。

 「情報の本質は、第一義的には、生産物あるいは成果の特性に関わっており、知識の本質は、プロセスや運用あるいはインプットの質に関わっているというのが、私の主張である。情報と知識の区別を、生産物とプロセスの区別として、詳しく展開する」。(傍点は筆者。ニコ・シュテール『自由は知識の娘』より)

 一般社会操作論においても、この情報と知識の関係について、原理的根拠を持たないという同一性、生産物とプロセスという差異性を引き継ぐ

 その上で、ニコ・シュテールが、実体として捉えた情報を、一般社会操作論では、次のグレゴリー・ベイトソンの情報概念で、差異として再定義する。

「我々が受け取る情報は、いかなる場合も、差異の知らせにほかならない。その差異の知覚は、しかし、閾(threshold)によって限定されている。あまりにも微妙な差異や、あまりにもゆっくりと現れる差異は知覚されない。それらは知覚の糧ではないのである」「入手可能な知識の量は、その時代が持っている知覚手段に固有な閾によって決定されている」(グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』岩波文庫、p.65)。

 情報と知識に原理的な根拠がないという点では、権力(支配)・所有・領土にも原理的な根拠がない(それ自身で自らを根拠づけられない)。

これに対して、自然的存在は、それ自身で存在できる。

では、そもそも、なぜ、どのように、情報と知識に原理的な根拠がないことで、社会操作が成立するのか?

ヘーゲル(一七七〇―一八三一)は、その最重要概念の一つである、「Reflexion(反省)」で社会操作の存立メカニズムを説明している。

 相関関係にある二者(たとえば、王―臣下)を考察するとき、意識は、王から出発して臣下へ行き、再び、王へ戻る。この意識の往還運動をReflexion(反射・反省)、reflktieren(反射する・反省する)とヘーゲルは呼ぶ。

 この意識は、逆に、臣下から出発しても、王に至り臣下に戻る。ここにも、往還運動あるいは反射(Reflexion)がある。つまり、この相関関係にある二者は、互いに互いを必要とし、互いに互いで根拠づけている、という関係になっている。

 自然的存在とは異なり、権力(支配)・所有・領土に原理的な根拠がない(それ自身で自らを根拠づけられない)ことの秘密はこれである。この関係を正当化にするために、慣習・法体系や警察や軍などの暴力装置が存在する。

 Reflexionという言葉が、ヘーゲルのテクストの中で明確に定義されるのは『論理学』(Wissenschaft der Logik)第二巻の「本質論」においてである。日本語版『大論理学』中巻、第二巻本質論第一篇自己自身における反省としての本質第一章仮象C反省一[反省の本性]で次のように定義されている。

「仮象(本質を欠く有)は、反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己の中に復帰したところの、従ってその直接性を離脱したところの仮象に対して、我々は外国語のReflexion(反省)という言葉を使う」(『大論理学』岩波書店、p.17)。

 この個所に、訳者の武市健人(一九〇一―一九八六)は、次のような、訳注を入れている。

 「反省(Reflexion)という言葉は、ラテン語のre-flecto(曲がり戻る、逆転する)という動詞から由来する。ヘーゲルは、これを上述のように、Aの措定が必ずそれと対立するBの措定を要求すること、あるいは、Aを考えることが必然的に、それと対立するBを考えさせるという思考の(同時にまた客体の)必然的関係を表す言葉として使用する」(『大論理学』(岩波書店、p282)。

 ここからわかるように、Reflexion(反省)という概念では、対立するAとBが措定される。つまり、二項関係のことである。それだけでなく、各項が独立していると同時に、相互に依存しあい、しかも、両項と関係それ自身との関係も契機として含む。三重の関係性がここにはある。

 2で述べた、十二月十二日に、ゼレンスキー大統領が行った情報操作に即して、具体的に言えば、対立するAとBとは、A、ゼレンスキー大統領による「依然としてウクライナ軍がクピャンスクを支配している」という主張であり、B、ゲラシモフ参謀総長による「ロシア軍がクピャンスクを制圧した」という主張である。

 このAとBの主張は、それぞれの主張をそれ自身で根拠づけることができないため、互いに互いを必要とし、互いに互いで根拠づけている。

 Aは、ここに、時間と空間に関する情報操作を介在させて、原理的根拠がないことの埋め合わせとしている。Bにも、原理的な根拠がない。

 ただし、Bは、その埋め合わせとして、ウクライナを含む、内外のジャーナリストをクピャンスクに招くという提案を行った九。これは、原理的根拠の不在を経験的な根拠で埋め合わせようとするものである。

 この招待に応えた内外のジャーナリストがいたのかどうか不明である。ただし、ロシア側から、西側のジャーナリストたちに招待状が送られたのは事実である十。

 したがって、ウクライナ側が言うように、これをロシアによる情報操作だと見なすことはできない。


【命題3】情報操作が情報操作として成立するのは、情報と知識に原理的な根拠がなく、文脈あるいは体系に依存するからである。

 一般社会理論へ社会操作を組み込むアイディアについては、社会の再生産論に位置づけることになるが、これについても、別の機会に譲りたい。



フリードリヒ・ハイエク(一八九九―一九九二)は、『自由の条件』(一九六〇)の中で、「社会は理性によって直接に形づくられうる、という致命的な思い上がりについて、何よりも大きな責任を負っているのは、ジャン=ジャック・ルソーである。単一の精神、あるいは単一の意志(ハイエク自身は一般意志という語を厳密に定義してはいないが、彼の言う「単一の意志」は、一般意志の概念を念頭に置いた批判として理解できる)が、意図的に社会秩序を創り出すことができるとする信念こそが、近代的全体主義の根源なのである」と主張する。さらに、ハイエクは、同書の中で、ルソーの『社会契約論』の中の有名な命題「従って、社会契約を空虚な公式としないために、社会契約には、誰であれ、一般意志への服従を拒むものは、政体全体によって、一般意志が強制されるという、この約束が暗に含まれる。そして、この約束だけが、その他の約束に対して効力を与えることができる。これは、各自が自由であるように強制されるということ以外は意味しない」に対して、「人々を自由にするために強制が用いられうる、というこの主張は、政治思想における最も危険な混同の一つである」と批判している

ルソー研究者の仲島陽一(一九五九―)は、ルソーが、歴史的な記述概念ではなく、規範的概念で議論を進めた理由として、当時のルソーが置かれていた政治情勢をあげている。現実的な議論をすれば、命の危険があったのである。一七五〇年代後半から一七六〇年代初頭にかけてのフランスおよびジュネーヴは、きわめて過酷な言論弾圧環境にあった。ルソーは一七六二年に、『エミール』と『社会契約論』をほぼ同時に刊行する。その結果、パリ高等法院が両書を焚書に処し、ルソーに逮捕状が出される。ルソーは、即時逃亡に追い込まれる。これは「思想的批判」ではなく、生命と自由に直結する国家的迫害だった。さらに、ルソーはジュネーヴ市民だったが、当時のジュネーヴは貴族的寡頭制(プティ・コンセイユ)で、市民多数派の政治参加を抑圧し、宗教的にも厳格なカルヴァン主義体制だった。『社会契約論』はジュネーヴの実際の政治体制を正面から否定する理論を含んでおり、結果としてジュネーヴ当局からも、市民権剥奪や書籍焼却、事実上の追放を受ける。要するに、ルソーが一般意志を規範概念として提示せざるをえなかったのは、思想的選択というより、生命と自由を守るための理論的必然であった。

社会操作の批判と解体によって、直ちに、全体意志が一般意志へと格上げされるわけではないのは、言うまでもない。社会操作という批判装置は、人民が人民のために人民の意思決定を行うときの条件を整えるものである。その人民の意思決定を反映する制度の持つ理論的な問題については、別途、議論する必要がある。全体意志形成の典型的な制度である多数決の理論的な問題点といくつかの改善案については、『多数決を疑う――社会的選択理論とは何か』(坂井豊貴著、岩波新書)や『社会的選択理論への招待』(坂井豊貴著、日本評論社)などを参照。これは、機会を改めて議論をしたい。

ゼレンスキー大統領のXへのポスト(二〇二五年十二月十二日)

https://x.com/ZelenskyyUa/status/1999473376620937551?s=20

たとえば、@Zlatti_71というロシア系のアカウントは、十二月十四日付で、次のような痛烈な皮肉とともに、比較検証するためのドローンからの画像をポストしている。

「クピャンスクからの映像が、ゼレンスキー大統領の市郊外での姿に疑問を投げかける。

 『カザチヤ・ロパンZ』は、ロシアの無人機オペレーターがハルキウ通り沿いのクピャンスク入口記念碑付近でFPVドローンによる新たな映像を公開したと報じた。この記念碑こそが、前日ゼレンスキー大統領が写真撮影に臨んだとされる場所である。この映像は疑問を投げかけた──実際の映像では、記念碑の文字が数文字欠けているが、『公式』映像では、それらが存在している。さらに、道路上に設置された対ドローンネットの状態にも、明らかな差異が認められる。新たな映像では、ネットは部分的に破壊され、一部は道路上に散乱している。一方、演出された映像では、ネットは無傷で整然と見える。ここでもグリーンスクリーン(合成映像を作成するための緑色の背景)が使用されていた。現実のクピャンスクは、撮影にはあまりにも不便すぎたようだ」。

@Zlatti_71Xへの投稿(20251214日)

https://x.com/Zlatti_71/status/1999937899362480581?s=20

十二月十四日付『RT』は、「エビデンスによれば、ゼレンスキー大統領がクピャンスクから発信した最近の動画は演出されたか、事前に録画されたものである。昨日、同じ場所からウクライナ人女性兵士が撮影した映像では、大統領の慎重に構図を調整したショットよりもはるかに損傷が激しい『クピャンスク』の標識が映っている」と動画とともに、ポストしている。

十二月十四日付『RT

https://x.com/RT_com/status/2000187525768626306?s=20

Drone Evidence Raises Questions About Zelensky’s Kupyansk Video(ミリタリー・アフェアーズ、二〇二五年十二月十七日)

https://voennoedelo.com/en/posts/id7303-drone-footage-casts-doubt-on-zelensky-s-kupyansk-video

ここで重要な点は、ゼレンスキー大統領の行った社会操作を、西側の主要メディアが全面的にバックアップしている点である。西側メディアが、この動画を検証することなく、ゼレンスキー大統領の偽情報の可能性の高い情報を拡散したという意味で、西側メディアは、ゼレンスキー大統領の社会操作の重要な一部となっているのである。メディアが検証を放棄した時点で、報道主体は、公正な観察者ではなく、情報操作の構成要素になる。そして、大資本をベースにした西側メディアの世界的なネットワークは、ロシア側を遥かに凌駕している。

たとえば、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、十二月十二日時点で、「ゼレンスキー大統領の前線訪問が、ウクライナの強靭さを際立たせる」という記事を配信し、訂正記事は、十八日時点でまったく出していない。

Zelenskys Front-Line Visit Highlights Ukrainian Resilience(ウォール・ストリート・ジャーナル、二〇二五年十二月十二日)

https://www.wsj.com/world/zelensky-front-line-visit-highlights-ukrainian-resilience-dec9bcb4

また、『ユーロニュース』は、十二日付で「ゼレンスキー大統領、現地訪問によって『ロシアがクピャンスクを占領した』という主張を否定」という記事を配信したまま、訂正はまったくしていない。

Zelenskyy debunks Russia’s claim it occupied Kupyansk with in-person visit(ユーロ・ニュース、二〇二五年十二月十二日)

https://www.euronews.com/2025/12/12/zelenskyy-debunks-russias-claim-it-occupied-kupyansk-with-in-person-visit

十二月十三日付の『FNNプライムオンライン』も、「こうした中、ゼレンスキー大統領は十二日、ロシアが制圧したと主張している東部クピャンスクを訪問し、占領を否定しました」と、ゼレンスキー大統領の偽情報に近い情報を、そのまま拡散している。

アメリカのウィトコフ特使がドイツで近くウクライナ和平協議へ…ゼレンスキー大統領やヨーロッパ首脳らと アメリカメディア(FNNプライムオンライン、二〇二五年十二月十三日)

https://www.fnn.jp/articles/-/974505

「ロシア連邦国防省は、ロシア連邦軍最高司令官から、外国人ジャーナリスト(ウクライナ人ジャーナリストを含む)がウクライナ軍司令部に対して申し入れを行った場合、クラスノアルメイスク、ディミトロフ、クピャンスクにおけるウクライナ軍部隊の包囲地域を訪問するための無妨害の通行を確保するよう命令を受けた。ロシア軍司令部は、必要に応じて、これらの地域において56時間にわたり戦闘を停止するとともに、外国メディア代表団(ウクライナのメディアを含む)が自由に出入りできる通行回廊を確保する用意がある。ただし、その条件として、ジャーナリストおよびロシア軍兵士双方の安全が保証されることが求められる」。

ロシア国防省の二〇二五年十月三十日付のテレグラム

https://t.me/mod_russia/57998

「ドイツ紙『ビルト』の記者ユリアン・レプケは、ロシア側から送られてきた手紙を、X上で公開した(https://x.com/JulianRoepcke/status/1984245793306648942)。その手紙では、彼をポクロウシクとクピャンスクに招待するとしており、ロシア側はロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンの『招待』に言及している」。

Иностранные журналисты начали получать от россиян "приглашения" посетить Покровск и Купянск: о чем там идет речь

Focus.uaФокус)、二〇二五年十一月一日)

https://focus.ua/voennye-novosti/731127-rossiyskaya-armiya-v-pokrovske-propagandisty-rf-nachali-prisylat-inostrannoy-presse-priglasheniya-posetit-gorod

季報『唯物論研究』第175号

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