京都日誌(414)








■6月1日、月曜日、快晴。

美しい夏日だった。

朝から洗濯する。

朝の詩と俳句の朗読が習慣となる。

聲に出してテクストを読むと、面白い発見がある。

若森先生に論文の感想と、私の第4詩集『二〇の物と五つの場の言葉』を送る。

入院中のロミーに、汲み出し茶碗を送る。

朝から夕方まで、ニコの仕事に専念。

『訳者あとがき』を考えつつ、日本語版序文を検討し校正。

私に任せてくれるとのことなので、原著のタイトル『自由は知識の娘』──これは、ニコの属する、欧州啓蒙主義の最良の系譜をよく表し、それはそれでいいのだが──を、『ナレッジアビリティ(Knowledgeability)──知識、民主主義、そして人間の自由の条件をめぐる問題』へ変更することに。

ナレッジアビリティ(Knowledgeability)』は、知識の新しい概念であり、この言葉を、世界化させたいと考えている。

また、今年、イタリアで受けたインタビューも送ってくれたので、読んでコメントをニコに送る。

このインタビューは、最良のニコの知識社会学入門となっているので、まるごと、彼の本に付録として入れることにした。


夕方から、平安神宮へ薪能を観に行く。京都で初めて薪能を観た。翁(金剛流)と、杜若(観世流)が、特に良かった。翁は、これまで、大宮氷川神社の薪能で観てきたものとぜんぜん違っていて、驚いた。杜若の精の舞は、非常に美しかった。きょう、一番佳かった。

狂言(大蔵流)は、いまひとつ。最後は、平安神宮だけで上演が許されている、新しい能「平安」(観世流、大正4年)を観たが、これもいまひとつだった。「四海平安(世界平和)」というコンセプトはいいのだが、天女4人と天つ神の計5人が舞台で同時に舞うのは、やや賑やかすぎる気がする(それが、いいという観客の聲も聞かれたが)。私見では、美を数が損なっている。


ふと、思いついて、つげ義春の傑作の評価が高い、『沼』はどんな漫画だったかと、思い出そうとしたが、思い出せない。読んでいるはずだが、思い出せない。

調べてみると、極力、説明を排した作品で、ストーリー性はあまりなく、むしろ、詩に近いことが確認できた。セリフは、少し覚えていた。

詩は、説明できなくても──できない場合が多いが、それを暗唱すれば、何かが残る。

漫画は、どうだろうか。本などを写真を撮ったように記憶できる人もいると聞くが、それをひとに伝える時には、やはり散文言語で説明するしかないのだろうか。

それとも、詩や俳句などの別の表現に翻訳するか、別の漫画に本歌取りするか......


今週末、母の見舞いと自宅の本の整理で、若宮へ戻るが、この本の整理という問題は、今年後半の大きな課題となりそうな気がする。




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