京都日誌(416)
■6月13日、土曜日、積雲ある晴れ。
4ヶ月ぶりに埼玉へ戻って、いろいろ、やることが山積している。
その中でもっとも重要なのが、自室の本・資料の整理と京都への発送である。
ようやく、本の箱詰めに着手。まだ、1箱。
水曜日は、六本木の事務所へ出かける。Rさん、Hさんと会う。
この日、東京は寒かった。東京タワーを久しぶりに見た。外苑通沿いに出されたゴミに鴉はいなかった。
Wordに、自動目次作成機能があることを、Rさんに教えてもらった。これで、PDF版と紙版の2通りの本を作ることができる。
金曜日は、妻と買い物に行き、家族に夕食を作る。
デリッシュキッチンのレシピを使ったが、これは時短でいいのだが、そのトレードオフと言っていいと思うが、全般に出汁が弱い。
なので、味噌汁の出汁を少し借用。家族の評判は良かった。
土曜日は、夕方、運動に出かける。まだ、体調が本調子ではなく、25分で切り上げる。帰りに、県道164号沿いの古本市場で、『九条の大罪』第6巻を購入。
その後、家族と合流して、北上尾のがってん寿司へ。
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5月31日付『ニューヨーク・タイムズ』が興味深い記事を配信している。
ルース・グラハム記者が、「UFOファイルに、悪魔を見るキリスト者たち」というタイトルで、トランプ政権が、公開し始めたUAPファイルが、キリスト教神学に与えているインパクトについて述べている。
この記事を読むと、米国のトランプ支持層の中核で、カルト宗教と言っていい、福音派=クリスチャン・シオニストたちの行動は、ちょうど、1633年に、天動説を唱えたガリレオにローマ異端審問所が、異端の疑いをかけ、地動説の放棄を強制した事件と同じ色彩を持っている。それは、聖書原理主義であり、ユダヤ人の聖書作者が、バビロン捕囚時代に、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教から強い影響を受け、唯一神、終末論、最後の審判、善悪二元論、死者の復活、救世主思想を、ゾロアスター教から取り入れて、書いた聖書の世界解釈(イスラム教シーア派最大宗派である十二イマーム派における第12代イマーム・ムハンマド・アル=マフディーの再臨による救済の思想も、ゾロアスター教の影響下にある)を、神の聖なる書だとして社会的に絶対化する危険性と同一のものである。
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UFOファイルに、悪魔を見るキリスト教徒たち
宇宙に知的生命体が存在するという可能性は、不穏な神学的問題を提起する
ルース・グレアム著(2026年5月31日)
2月のある夜、ナッシュビルのAirbnbに集まった十数人の牧師やポッドキャスターたちは、これから何が始まるのか見当もつかなかった。
主催者は携帯電話を機内モードにするよう求めた。軽食が配られた。そして少なくとも2時間、2人の謎めいた男たちがスライドショーを使って、宇宙人の存在を示す証拠と称するものと、これから暴かれる真実がキリスト教徒の間にもたらしうる霊的混乱について説明した。
「あんな奇妙な会合は生まれて初めてでした」と、参加したノースカロライナ州の牧師アラン・ディディオは語った。「ペンテコステ派があんなに多く集まって、みんな黙り込んでいるなんて、見たことがない」
その場にいた牧師の多くにとって、そして他のキリスト教徒にとっても、地球外生命体については唯一の説明しかありえない――それは他の惑星や次元から来た中立的な訪問者などではなく、悪魔的な存在だ、というものだ。
牧師たちが会合を終えて携帯電話をオンにすると、ニュース速報が届いた。まさにその日、トランプ大統領が政権に対して地球外生命体に関するファイルの公開を開始するよう指示したというものだった。
情報公開は今月(5月)、ペンタゴンが「これまで公開されたことのない」不鮮明な新画像を公開する形で始まった。その意義はまだ定かではない。
しかし一部の保守的キリスト教徒にとって――彼らはトランプ氏の最も忠実な支持者層でもある――宇宙に知的生命体が存在するという可能性は、神学的に不穏な含意を持つ。たとえばそれは、聖書が描く「地球と人類が神の計画の中心にある」という世界観を揺るがすのではないかと懸念する者もいる。
2021年のピュー・リサーチ・センターの調査によれば、米国のキリスト教徒は一般市民に比べて、他の惑星に知的生命体が存在すると考える割合が著しく低い。無神論者・不可知論者では85パーセントが地球外に知的生命体がいると推測するのに対し、白人福音派ではその割合はわずか40パーセントにとどまる。
「UFOというテーマは、どんな宗教的世界観にとっても大きな挑戦です」と語るのは、ライス大学の宗教学教授ジェフリー・クリパルだ。同氏は超常現象に関する資料館を設け、UFO「体験者」の証言を収集してきた。
クリパル博士の見方によれば、地球上の多くの宗教の起源物語は、出所不明の不可解な存在との遭遇の記述として読み解くことができる。
「神々は常に空から来ていた、それを我々は宗教と呼んできた」と彼は言う。「西欧の言語には、この中間の領域にある存在を表す言葉がほとんどない。だから宗教的な人々が、自分たちの世界観に収まらない存在を目にしたとき、それを悪魔と呼ぶのだと思う」。
地球外生命体を悪魔的存在として解釈する可能性は、一部の保守的キリスト教徒の間で目新しい理論ではない。しかしそれは最近、思弁的な宗教的宇宙論の周縁部から、政府の最高位にある選出議員たちをも含む、より目立つ場所へと浮上してきた。
「彼らは宇宙人ではなく、悪魔だと思います」と、カトリック教徒であるJDヴァンス副大統領は今春、保守系ポッドキャストでこう述べた。
カトリック教会に地球外生命体の可能性に関する公式の教義はないが、一部のカトリック神学者の関心を集めてきた。2010年にはバチカンの科学者が「宇宙人にも魂があるかもしれない」と示唆し、「彼らが望めば洗礼を授ける」と述べて話題になった。
「キリスト教を含むすべての偉大な世界宗教は、この世には奇妙な何かがあり、説明しがたいものがあると理解してきました」とヴァンス氏は付け加えた。
コロラド州選出のローレン・ボーバート下院議員も、保守系キリスト教音楽家・活動家のショーン・フォイトが主宰するポッドキャストで同様の見解を示した。「これはより霊的な、あえて言えば悪魔的な問題だと思います。私たちがこれまで長い間考えてきたような宇宙人ではないと思う」と彼女は述べた。
こうした宇宙人と悪魔をめぐる霊的憶測は、大多数のキリスト教の説教壇では扱われていない、と『Christianity Today』のラッセル・ムーア編集長は指摘する。
ムーア氏は今春、自身のナッシュビルの福音派教会の成人向け日曜礼拝クラスでこのテーマに触れた。ヘブライ人への手紙の一節――人類と天使の関係、そして宇宙への人類の支配力の欠如を問うもの――を講じながら、天使や宇宙人のような非人間的存在と直接接触することの意味を問いかけた。
授業後の会話は「宇宙人よりも、『人間であるとはどういうことか』という問いに向かいました」と彼は振り返り、UFO(未確認異常現象)は「彼らにとって本質ではなく、AIについて話したがっていた」と付け加えた。
ムーア氏は、地球外生命体の証明はキリスト教への脅威にはならないし、敵意を持って迎える必要もないと述べた。「地球の外に何かが存在する可能性を認めるなら、基本的な姿勢は見知らぬ人への対し方と同じであるべきです」と彼は言う。
宇宙人生命体についての憶測は、他の神学的・文化的潮流の中ではより自然に位置づけられる。聖霊の現代的な働きを重視するカリスマ的キリスト教徒(※聖霊=Holy Spiritが現代でも直接的に働き、奇跡や霊的賜物=カリスマが与えられると強調するキリスト教徒)にとっては、「自然界と超自然界の境界線がより薄い」とインディアナ大学の英文学教授ポール・グットヤールは指摘する。彼は近刊『宇宙への信仰:地球外生命体をめぐるアメリカの宗教的信仰』の著者でもある。
ディディオ氏は、2月の会合に出席した十数人のカリスマ的キリスト教指導者の多くと同様、霊的なものと超常的なものとの境界領域に長年関心を持ってきた。だから彼は、名前も正確な経歴も明かせないと語ったプレゼンターたちの話を、準備十分な状態で聴くことができた。
多くの出席者を招待したポッドキャスターのトニー・マーケルは、主催者の名前の公表を断ったが、彼らは米国政府と無関係の「情報工作員」だったと述べた。
この会合を企画したのは、毎年開催される全国宗教放送者協会の大会のためにすでに数千人の保守的キリスト教指導者やメディア関係者がナッシュビルに集まっており(今年はピート・ヘグセス国防長官が基調講演を行った)、その機会を活用したためだという。
「目的は、『これから何かが来る、政府は情報公開の準備をしているようだ。だから人々が騙されないよう備えさせ、警告できるようにしなければならない』と伝えることでした」と、テキサス州の牧師ベン・ヒューズは語った。
同様のキリスト教指導者向け会合では、ミズーリ州選出の共和党のエリック・バーリソン下院議員が電話で参加し、地球外生命体の証明がいかに誤解されうるかについて意見を共有した。
出席者たちはその後、会合での体験や、将来明らかにされるかもしれない事実をどう解釈すべきかについての見解を、自分たちの教会の会衆やポッドキャストの聴衆と共有している。その語り口は、警告と憶測と安心の入り混じったものだ。
しかし彼らの多くはまた、地球外・次元外の存在に関する憶測が主流となっていく流れの中に、一種の検証を見出してもいる。
「やがてフェンスは消える」とヒューズ氏は言った。「これは人々に、神が本物でキリスト教が本物で超自然が本物なのか、あるいはこの宇宙人話が本物なのか、どちらかを選ばせることになるでしょう」。彼はこのほど、「救済の証言」と「超自然的な出会い」をテーマとするポッドキャストを立ち上げた。
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このように、自分たちにとって、理解不能な存在を悪魔化する文脈が、現在でも存在していることがわかる。
ただ、神や救済、終末──これらは、妄想でしかないが、そして、「宗教は阿片である」(宗教の機能的な側面を言い当てている)、あるいは、「創世記は人間労働を反映した記述である」(非常に鋭い)、「弁証法的唯物論としての諸科学のうちに解消されてしまう」(確かに、世俗化は進んできた。そして、科学が、宗教とともに、国家構成原理となってきた)と言われ続けながら、その妄想に、人間は、何度も何度も、捉えられ、現在でも、この妄想で、政治が動いている。
このこと自体を冷笑するか、理解するか、肩をすくめるかは別にして、それは、なぜなのかを問うことこそ、重要なのだろうと思う。
私見では、人間の存在論的な構造と、宗教的な思考、言い換えれば、超越的思考には関連があると思っている。
人間の個人レベルで言えば、三木清が言葉がヒントになるだろうと思う。
「存在の根源を思索する、形而上学は、人間が存在と無との、知と無知との、主体と客体との中間者である限り、超越的なものへの問いかけとし必然的に存続する」(三木清『形而上学の将来性について』)。
阿片が不要になっても、人間の存在論的な構造から、神が思索されることになる。
もう一つは、全体社会レベルで、社会は再生産による維持を必要とする。
この社会の維持にとって、文化システムとして、超越者が必要とされる。
たとえば、靖国神社という国家による慰霊装置がそれである。
これは、構造操作とも深くかかわり、ここで詳論しないが、人間が労働を行う社会的存在であることと関連している。
このふたつは、相互に選び出してくるような、いわば、選択的親和性の関係があるのではないかとも感じている。