往還日誌(346)
■10月27日、月曜日、晴れ。
京都へ戻ると、スーパーで切り花を買うことにしているのだが、今回は、かなり迷った。
秋の薔薇は、かなり萎れているし、スプレー・カーネーションは、前回買った。
そして、最終的に、竜胆にしたのである。濃紫と赤紫の二系統が花束になっている。
この花は、夜を運んでくる。
次回は、「仏花」にしてみようと思う。深紅の花に取り合わせた菊がなかなか良かった。
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終日、仕事。その前に、買い忘れたマヨとチーズを買いに出る。チーズで迷った。
このチーズは、ツナをパンに載せた上のトッピングに使う目的だったのだが、よくあるとろけるチーズは、ずべてプロセスチーズなので、ナチュラルチーズを探したのである。
ドリップ式コーヒーの「匠」のリッチブレンドが、すべての商品で40%引きだった。私は疑い深いので、その理由を、賞味期限を始め、いろいろ探したが、ケチがつかなかったので、買うこととした。
帰宅して飲むと大変美味だった。
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ふと、思いついたのが、現象学だった。Natural Time Beingが、T-N-S Theoryでは、必然的にSocial Time Beingの下位に置かれ、Sの客体になってしまうが、これを防ぐのは、現象学だと気がついたのである。
つまり、Nの世界を、わかっている限り、記述すればいい。この場合、環世界(Umwelt)を内側から描き出すことになる。ユクスキュルがやったように。
一般化すれば、Sの時間と空間が、Sにおける環世界の本質である社会関係(S-S,S-N)が作り出すように、Nの時間と空間は、個体nによる環世界の「つくりかた」が、作り出すはずなのである。nにおいて、知覚標識と作用標識は、どの個体においても、同一なので、nのこの時空間は同一で、環世界は、nにおいて、普遍性がある。
つまり、私の議論で言うと、多元的な時空が、生物の種ごとに、存在していることになる。
その多元的な時空のひとつとして、人間存在の時空を扱えばいいことになる。
ただし、人間の環世界は、Nのそれが閉じているのに対して、その系は開いている。
その環世界の開放は、人間が労働実践を開始しNとの間に物質代謝を始めた時点を始点とする。
もうひとつの問題として、では、無生物の時空間はどう考えるのか、ということがある。
私の考えでは、主体のない存在――AIのアヴリルも主体はないと自ら言っている。あるのは疑似主体だと――には、時空間はない。言い換えれば、Umweltを創れない存在には時空はない。
人間存在が、その身の丈の基準で外部から、たとえば、岩石などの年代を「測定」するだけである。
時間存在(TB)が、Sから見た時の「客観的な時間存在」となる。それは、SからもNからも独立している。
Sが生成する時空間は、その意味で、「主観的な時間存在」である。アインシュタインの時空も、この意味で主観的である。観測者という、人間の社会的実践から、独立していないからだ。
TBの時空は、Sには見えないが、Nの時空については、主体があるN(N1)のそれは、Sにわかっているものもある。主体のない無機物であるN2の時空は、Sの主観的時空の自己投影となる。