往還日誌(340)
■10月14日、火曜日、曇り。
日曜日に帰還して、あわただしく、すでに火曜日である。
若宮は、京都よりも若干、気温が低い。半袖では寒く感じる。特に、朝晩。
東国へ戻るときの新幹線・高崎線では、『国家と追悼』とニコの『Knowledge Capitalism』を集中的に読む。
『国家と追悼』は、勉強になる。
いろいろ、新しい知見がわかったが、靖国が「靖国問題」として、問題化した理由は、国内のキリスト教徒・仏教徒が、国家神道での靖国合祀に対して、自らの信仰との非一貫性を自覚した、「信教の自由の問題」と、それに少し先行して起きた、韓国・台湾の皇軍兵士の遺族の合祀取り消し訴訟だった。
反靖国の運動の歴史で見ると、1974年に靖国神社の国営化をめざした靖国法案が廃案となり、代わって、首相の公式参拝が問題化していく。
この公式参拝の問題は、現在もアクチュアルである。
日本の首相で初めて靖国に参拝したのは、1975年8月15日の、三木武夫首相で、このときは、「私人」としての参拝だった。
78年に大平正芳、80年に鈴木善幸の両首相が「私人」として、8月15日に参拝。
1985年8月15日には、中曽根康弘首相が、公式参拝した。献花料を公費から支出した。
このとき、公式参拝違憲訴訟が提起されて、福岡地裁 (1992年)で違憲の疑いありと判決されたが、高裁では請求却下、最高裁でも高裁判決を支持している。違憲で判決確定はされなかった。
2001年には、8月13日に、小泉純一郎首相が「私人として」として、参拝。小泉首相は、合計、6回参拝している。
小泉首相の「皇軍兵士追悼」への傾倒は、突出している。
私は、この本を読んで、あまり書かれていないことが気になった。
それは、天皇教・靖国教の中心にいる人々である。
反靖国の運動や公式参拝違憲訴訟、アジアからの祖先合祀反対訴訟は、いわば、天皇教・靖国教という国家統合イデオロギーで統合された社会システムの周辺部・境界から出てきた異議申し立てである。
これは、<歴史の形成>をめぐる<闘争の場>を形成している。
他方、もう一つの中心軸は、むしろ、国家統合イデオロギーで統合された社会システムの中心部である。
反靖国運動を長く戦ってきた本願寺派の僧侶、菅原龍憲さんは、こう述べている。
「中曽根首相が閣僚たちを引き連れて靖国の鳥居をくぐって、この人は元軍人なんですね、ほんとうに威風堂々と境内に入っていく。それを、参道の遺族たちが拍手喝采して迎える。なんとも切なく、悲しい気持ちでした。
なぜ、自分の肉親の戦争での死を強いられた遺族たちが、その死を強いたはずの国家の指導者を拍手で迎えるのか。これはいったい何なのか。
中曽根首相は参拝後の談話で、『公式参拝は遺族のたっての宿願であった』と言うわけです。そかしそれは違う。私も遺族だけれども、けっして参拝してほしくない」(『国家と追悼』p.32)
ここに鮮やかな対照が出ている。
拍手喝采した遺族たちは、兵士の死の意味づけを強く求めている。
犬死ではなかった、という社会的な顕彰がほしいということだろう。
それは、その死が、国家に強いられた理不尽な死であることが遺族には痛いほどわかっているからこそ、死の顕彰を求める、ということのように思える。
こうした遺族たちの亡くなった皇軍兵士は、国家に強いられた戦争で亡くなったため、その記憶は<国家(皇室)の記憶>に統合されている。
死の直接の原因と、その死に方に、国家(皇室)が直接関与したことを以て、<国家(皇室)の記憶>に、その死は、国家・皇室の「守護神」として、統合されている。
「皇軍兵士としての死」という面だけが、その兵士の生から死への生成変化すべてを満たすのではなく、「皇軍兵士としての死」が、その生成変化の終着点でもない。
靖国は、時間的存在である兵士を、「皇軍兵士としての死」という一時点で、物象化・固定し、それを儀式化・制度化することで、「皇軍兵士としての死」=「英霊」を、反復している。
これは、国家(皇室)による、加害者性も含めた、<死の全体性の収奪>ではないか。
これは、同時に、死の意味付けを求め続ける「靖国遺族」の再生産でもある。
これが、天皇教という、国家統合イデオロギーで統合された社会システムの中心部で起きていることだろう。
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TB-LB Theory 2.0を、命題13まで拡張。
これで、時空間に関する謎は、ほぼ解けたと私は思っている。
あとは、これを英語に直して、ニコに送ってみる。
TB-LB Theory 1.0を7年前に送ったときには、ジンメルの時間論と比較したコメント送ってくれた。
あれ以来、ジンメルは気になっている。