往還日誌(343)

 







■10月23日、木曜日、晴れ。

きょうは久しぶりに好天だった。

高市総理は、就任早々、新自由主義者の側面を前面に出してきている。

1つは、残業時間の上限を定めた労働時間規制の緩和検討指示を、就任早々の上野賢一郎厚労大臣に出している。

連合の芳野友子会長は23日の記者会見で、この指示について「緩和はあってはならない。これまでの(働き方改革の)取り組みに逆行するもので看過できない」と述べている。

これまで、連合と政府は、賃上げで共同歩調を取り、形式的には、労働側に立って、資本の側に対して、賃上げ努力を求めてきた。

高市総理は違う。

「私は資本の側に立ちます」と宣言している。

労働者に賃上げの分だけ残業して稼いでくださいと、高市総理は言っている。

もうひとつは、維新との12項目の政策合意の中の社会保障政策の中にこういう項目がある。

(5)年齢にかかわらず働き続けることが可能な社会を実現するための「高齢者」の定義見直し

好きな仕事であれば、自分の生きがいとして、生涯、仕事ができるのは理想である。

だが、生活のために、つまらない上下関係やストレスの多い職場環境の中で、仕事をせざるを得ない場合がほとんどであるときに、これは高齢者への労働強制の響きを帯びる。

人口が減るので、高齢者の定義を変えて、労働力として、その死まで生産関係に組み込もうという意図が透けて見える。

高市総理のスタンスは、一貫して、資本のロジックである。

その反動性も含めて、米国のトランプ政権と親和性が高く、ほとんど、同期しているように見える。

日米で、国家統合や家族統合に熱心なのは、新自由主義が、国家解体や家族解体の潜勢力を持つからだろう。

この解体の原因を、資本主義ではなく、民主主義やリベラル・進歩主義に求めるところも、日米で同じである。

2010年代から2020年代にかけて急増したトランスジェンダーおよびクィアの自己認識は、若いアメリカ人の間で減少傾向にあるという報告書が10月10日に発表された。

調査したのは、バッキンガム大学ヘテロドックス・ソーシャル・サイエンス・センター。

これは、「異端社会科学センター」と訳せるが、社会科学における主流イデオロギー(たとえばウォーク思想)にとらわれず、多様な視点から研究を行うという意味で「ヘテロドックス」と名乗っていて、興味深い機関である。

ヘテロドックス(heterodox)」とは、英語で 「正統(orthodox)」に対する言葉で、もともとの意味は 「異端的」「正統から外れた」「主流ではない」という意味。政治学・社会学的に使われると、既存の「進歩派」や「保守派」の枠に収まらない立場を指す。

報告書のサマリーを見ると、

・大学生のうちトランスジェンダーと自認する割合は2023年にピークに達し、その後ほぼ半減。およそ7%から4%未満に低下した。

・異性愛者ではないと答える学生の割合も同期間に約10ポイント減少した。

・異性愛者であると答えた学生の割合は、2年前の最低値68%から上昇し、2025年には77%に達した。

・非異性愛者の減少は主に「クィア」や「その他の性的カテゴリー」(パンセクシュアル(相手の性別に関係なく恋愛感情や性的魅力を感じる人)、アセクシュアル(他者に対して性的な欲求や性的魅力をほとんど、またはまったく感じない人)など)に集中しており、バイセクシュアルの減少はそれより小さい。

・現在の新入生は上級生よりもBTQ+(バイセクシュアル・トランスジェンダー・クィアなど)を自認する割合が低く、この傾向が今後も続くことを示唆している。

・BTQ+自己認識の減少は、ソーシャルメディア利用の減少、宗教的復興、右派への政治的転換、あるいは「ウォーク(woke)」イデオロギーへの支持低下とは関係がないようだ。

・学生のメンタルヘルスが改善したことが、BTQ+自己認識の減少に影響しているというエビデンスがある。

エリック・カウフマン・ヘテロドックス・ソーシャル・サイエンス・センター長は、下級生ほどトランスジェンダーやクィアとして自己認識する割合が低い傾向にあると指摘し、これを「流行が変化している兆候」と考えている。

また、この傾向を、ジェンダーとセクシュアリティの多様性が急速に拡大した数年間を経た若いアメリカ人の間で生じた、「重大で予期せぬポスト・プログレッシブ(進歩主義以後)の文化的転換」だとも述べている。

エリック・カウフマンは、興味深い人で、2025年2月25日には、「The post-progressive condition: Meta-critical theory and the rebalancing of knowledge」という論文も発表している。

アブストラクトには、次のように書かれている。

「この論文は、西洋社会が「ポスト進歩主義的(post-progressive)」な知的時代に入りつつあると主張している。

それに伴い、私たちの進歩主義的認識枠(progressive episteme)の自明視された前提そのものを問題化する、新たな知識社会学が必要だとする。すなわち、私たちは、左派リベラル的な世界観(left-liberal Weltanschauung)によって社会的に構築された、知識生産システムの内部に生きているということである。

ポスト進歩主義(post-progressivism)は、進歩主義的社会科学の「批判的」主張に対して、さらに批判的な立場──すなわち「メタ批判的(meta-critical)」立場──をとることを提唱する。

この立場では、「システミック・レイシズム(systemic racism)」「セクシズム(sexism)」「ヘテロノーマティヴィティ(heteronormativity)」といった概念を、あたかも自明なものとして受け入れるのではなく、それらの概念がいかなる動機によって構築されたのか、またそれがどのような権力関係を生み出しているのかを問い直す。

これらの「進歩的」概念の境界は、ますます拡張的かつ道徳化された仕方で構築されてきており、その結果として、視点の多様性が狭められ、社会現実が歪められたレンズを通して屈折して見えるようになっている。

そのため、今日の社会科学は社会的現実を部分的にしか捉えていない。

ゆえに、ポスト進歩主義は、これまで除外されてきた主題や視点を回復し、社会科学的知の均衡を取り戻すための研究プログラムを求める。

最後に、ポスト進歩主義は、中範囲理論(middle-range theory)や行動科学的理論に基づき、「大理論(grand theory)」と実証主義的社会科学との再統合を提案する」。

この論文の結論は、こうなっている。

「結論

西洋社会は、いわゆる「ポスト・プログレッシブ(進歩主義以後)」の時代に入ったと言える。これは社会問題への新しいアプローチを必要としている。進歩主義的な大きな物語(grand narratives)は危機にあり、1960年代以降の進歩主義的認識論(episteme)に基づく構築主義的理論から生まれた学問は、メディアや政治家、世論など大学の外で起きている潮流とずれを見せている(Brenan, 2023)。

ポスト・プログレッシブ論は、「批判的」理論に対して批判的な視点を適用する。これが『メタ批判理論(Meta-Critical Theory, MCT)』である。つまり、『体系的人種差別(systemic racism)』『性差別(sexism)』『トランス恐怖症(transphobia)』といった“批判的”概念を、伝統的な社会科学の概念(人種、性、セクシュアリティなど)を批判的理論が扱ってきたのと同じ懐疑的なレンズで検証するということである。

構築主義的理論が相対主義的で反実証主義的な科学観を採用してきたのに対し、メタ批判理論は社会科学の営みを再び実在論と科学的方法へと引き戻す。構築主義的理論は理論構築と質的研究のブームを生んだが、メタ批判理論も同様の理論的刺激をもたらすと同時に、量的研究を鼓舞し、理論化するための枠組みとなることを目指す。本論文では、メタ批判的・ポスト進歩主義的視点を用い、イデオロギーが人々の『人種差別の広がり』に関する認識をどのように形づくるかを示すことで、その応用可能性を実証した。

『体系的人種差別』『性差別』『トランス恐怖症』といった大きな物語、そしてそれらを動機づける社会的諸力を批判的に問い直すことによってのみ、我々は学問をイデオロギー的な拘束から解き放ち、社会世界に関する知のバランスを回復することができるだろう」。

カウフマンは、2025年5月14日に、『ウォール・ストリート・ジャーナル』に「ポスト・プログレッシブの政治時代へようこそ」という意見記事も執筆している。

副題は、「何十年ものあいだ、文化戦争では右派がほとんどの戦いに敗れてきた。しかし今や、左派は明らかに行き過ぎてしまった」である。

たとえば、こんなことを言っている。

「ウォーク(woke)」の衰退は、単なる“雰囲気の変化(vibe shift)”ではない。それは、アメリカ文化における60年にわたる左派リベラリズムの台頭の終焉を意味している。私たちは今、『ポスト・プログレッシブ(進歩主義以後)』の時代へと入りつつある。(中略)

トランプ政権は、50年以上続いたアファーマティブ・アクションや『不均等影響(disparate impact)』に関する大統領令を撤廃した。これで、大学は広範なアイデンティティ・ベースの言論規制を設けることができなくなった。これらの多くは40年前に成立したものだった。

多くの大学が『制度的中立性』方針を採用し、義務的な多様性声明を廃止した。企業もDEI(Diversity, Equity & Inclusion)の取り組みを縮小している。

この反DEIの潮流は、現在の政権を超えて長続きする可能性があり、文化の深層的転換を示している(後略)」。

この記事を読むと、日本の参政党や高市早苗政権も、同じ気分を共有していることがわかる。

カウフマンの仕事それ自体は、社会的意義があると思うが、トランピズムや欧州極右、日本の極右などを、「全体的に正当化する」理論的な支柱になる危うさを感じる。

私の印象では、カウフマンには、ポスト・プログレッシブの時代と資本主義システム、特に、新自由主義との関連性の分析が弱いように思う。

また、この議論は、学問が脱イデオロギー化した絶対的な中立性を持ち得るという前提に立っているように思える。だが、私見では、それはありえない。メタ・クリティカルのクリティカルも可能である。

つまり、どの価値に立つのかということが、最終的には、重要になる。それは、同時に、その価値に立ったがゆえに、その研究が、どういう社会的な機能を持つかという知識社会学的な自己反省とともに。

ただ、11月4日のニューヨーク市長選で、ゾーラン・マムダーニが市長になると、米国民主党の政治風土において、良い方向への変化の兆しが出て、米国の政治に広範囲な影響を及ぼす可能性はある。それは、日本へも波及するだろう。



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