往還日誌(345)

 







■10月26日、日曜日、小雨。

京都は、夕方には雨はあがっていた。関東よりも2度、気温が高い。

溜まっていた郵便物を整理して、問い合わせのメールを書く。

めずらしく、高崎線で気分が悪くなってしまい、ニコの仕事はできなかった。

仕方ないので、溜まっているYouTube番組を視聴。

普段はそれほど気にならないが、イヤホンで番組を聴いていると、社内アナウンスが途切れなく、しかも、中身のないことをAI音声で流し続けていて、辟易した。

新幹線の中でも、仕事をやる気になれず、ユクスキュルの『生物から見た世界』を読む。初版が1909年、改訂・拡大版が1934年である。

ユクスキュルは、2018年6月18日に初めて、医学や免疫学、生物学のひとが多いフォーラムで、TB-LB Theoryという時間空間論を発表した時、参照すべきだという、ご指摘をいただいた生物学者だった。

それ以来、気にはなっていたが、なんとなくわかった気になってしまい――ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)の概念はたいへん有名なので――まともに向き合ってこなかった。

今回、11月の発表を前に、ユクスキュルを読み始めて、T-N-Sの三者の関係を考える上でたいへん示唆的だと遅まきながら気がついた。

TB-LB Theoryの後継である、T-N-S Theoryにおいて、Nature Time Being(N)とSocial Time Being(S)の間には、階層関係・上下関係があることに気づかせてくれる。Sにとって、Nは第一義的には、労働実践が媒介するため、労働対象や素材の意味しかない。

言い換えれば、T-N-S Theoryにおいては、あくまで、Sが主体でNは客体なのである。その意味で、人間中心の理論であるとの、前回の指摘はT-N-S Theoryにもふたたびあてはまる。

T-N-S Theoryにおいては、Sを主軸にして(ここに視座を置いて)、T→S(T→N)、S→N'(二次的自然)が中心の理論ということは言えると思う。

それは、人間が世界について、考えているからであり、こういうことを考えるのが、SのSたるゆえんであるとも言える。

ユクスキュルは、Nature Time Beingの個々の種それぞれに、環世界(Umwelt)があると述べている。その環世界は、その個別の種が、「主体」であるところから生じる。

この意味で、ユクスキュルの議論では、NもSも、同様に、主体的存在(ユクスキュルの文脈で言えば、生物は「生物機械」ではなく主体を持っている)として環世界に「住んでいる」。

この点では、NもSも違わない。

では、NとSはどこが違うのか? 

主体の自由度、つまり、主体にとっての選択肢の幅が違うのだと思う。

Sの自由度は、Nのそれよりも圧倒的に高い。つまり、選択肢が圧倒的に多い。それだけでなく、Sは、S→N'によって、自ら、新しい選択肢さえ作り出す

たとえば、Nature Time Beingとしてのダニにとって、環世界は3つの知覚標識と3つの作用標識からなっている。

3つの知覚標識とは、1.哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂い、2.鋭敏な温度感覚(何か温かいものの上に落ちる)、3.  なるべく毛のない場所を見つけるための触覚

3つの作用標識とは、1. 知覚標識の1が、それに触発されてダニが枝から肢を放して落下するという作用標識に変わり、2.哺乳類の上に落下したダニは、哺乳類の毛に衝撃という作用標識を与え、ダニの側には、触覚という知覚標識を触発する。

これによって、酪酸という臭覚という知覚標識は消去される。3.触覚という知覚標識がダニに歩き回る行動を触発する作用標識に変わる。やがて、毛のない皮膚に到達すると、温かさという知覚標識によって、歩き回るのは終わり、今後は、哺乳類の皮膚に食い込み血液を吸入するという作用標識へと変化する。

以上が、ダニの環世界のすべてである。

人間の環世界はどうか。

ユクスキュルは、こう述べてる。

「動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている。単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである」(『生物から見た世界』(岩波文庫)p.20)

本当にそうだろうか?

環世界の単純さ・複雑さで、人間を説明できるだろうか。

人間の環世界は、人間という種によって、ダニのように、機能環がすべて決まっているわけではない。

たとえば、詩人の環世界では、客体として世界の中で光ってくる(選ばれてくる)のは、たとえば、御所の塀に映った松の翳であり、ジャーナリストの環世界では、たとえば、高市総理の言葉であり、画家の環世界では、たとえば、朝の睡蓮にあたる光である。

つまり、詩人のダニやジャーナリストのダニ、画家のダニは、存在しない。

ダニは一律にダニなのである。

そして、「詩人」や「ジャーナリスト」、「画家」というカテゴリー自体、歴史的なもので、ごく最近Sの世界に誕生したものばかりである。

これは、「人間の環世界が複雑」というラフな表現では、その本質をとらえることができないものである。

つまり、人間の環世界は、閉じたものではなく、固定したものでもなく、運動している、創発しているのである。

端的に言えば、Sの環世界は生成変化するのである。

種の中の個人によっても、時代によっても、文化によっても。

では、NとSの環世界、あるいは、その存在構造を、根本的に分けるものはなにか?

Sが目的を定立してNに働きかけるというSの社会的実践の構造的な特質にあると思う。

ダニの場合、目的定立して、哺乳類の上に落ちるのではなく、知覚標識が作用標識に変化することで、作用が行われている。

しかも、それは、社会関係を前提としない。ダニは「社会関係」あるいは「生産関係」としての集団を必要とはしない。「種の保存」のために集団を必要としているだけである。

以上は正しい知見だと確信しているが、それでも、私の中で、割り切れないものが残るのである。

それは、生態系の中で、人間様だけがえらいように、T-N-S Theoryから導かれてしまうからだ。

この点をさらにユクスキュルを読みつつ検討してみたい。


このブログの人気の投稿

往還日誌(316)

往還日誌(310)

一般社会操作論に向けて