往還日誌(344)







■10月25日、土曜日。

『資本論』第2巻を資料の中から取り出す。『資本論』第1巻の新訳上・下と一緒に、京都行きの箱に梱包。『Das Kapital』もあったはずだが、それは出て来ない。手放してしまったのかもしれない。

いつか、必ず使うはずだとの予感のもとに、マルエン全集は、若くお金のないときに揃えたが、それが今のタイミングで巡ってきたことに、ある種の感慨がある。

今後、しばらくは、『資本論』の時間空間論を検討する予定。


午後、『季報唯物論研究』171号の合評会。

171号に執筆したひとで、合評会に参加したのは、私だけだったので、主に、私の『一般社会操作論に向けて』に関するコメントをみなさんから、いただく。

マルクス研究の泰斗、田畑稔先生ほか、いろいろ、貴重なご意見をいただき、これを、年末までに書く、少し長い論文に生かしたいと思っている。

私の『一般社会操作論』を説明していて、宗教現象が、「社会操作」の主体にも客体にも重要な意味を持つことに気が付いた。

キリスト教やユダヤ教、シオニズム、ジェンタイル・シオニズム、神道、仏教なども、「社会操作」という観点から議論する必要があるだろうと思う。

たとえば、靖國は、神道を媒介にした「国家統合」の典型的なイデオロギー装置の一つだが、同じように、「家統合」のイデオロギー装置の媒介の一つとして仏教寺院がある。

今は、たいぶ廃れてきたが、それでも、血縁イデオロギーと一体になって、法事によって、死者を繰り返し「現在」に呼び出すことで、「家あるいは一族の観念」を再生産していると言える。

もちろん、それを望む信者の「遺族」が存在する。「靖国遺族」がそうであるのと同じように。

社会や国家は、いったん、出現すれば、「再生産過程」を志向する。

資本は「拡大再生産」を志向するが、国家や社会は、人口問題が示すように、必ずしもそうではない。

国家統合や家統合に係る「社会操作」のベクトルは、社会全体のこの再生産過程(社会的物質代謝)に、根本では規定される。

なので、「社会操作」が存在しない国家や社会は存在しない。

問題は、そのベクトルだろう。罪のない社会操作と罪深い社会操作がある。

「社会操作」を、ルソーの「一般意志」の実現を疎外する機構と定義したゆえんである。

ルソーの『社会契約論』を、内在的に検討すると、全体主義に至ることは、論理的にありえないのだが、外在的な批判としては、誰がどのように「一般意志」を形成するのかのプロセス論がわかりにくいので、そういう批判もある。

そこは、議論しておく必要があるのは確かである。


京都は、関東よりも暖かいと聞く。

さて、長袖を追加で持っていくべきかどうか。


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