往還日誌(333)
靖国神社南門を入った左手に生える樟
■9月26日、金曜日、晴れ。
朝は湿度が低く、気持ちのいい朝だったが、日中は真夏ように暑かった。
きょうは、気分が重い一日となった。
午前中、渋谷の松濤美術館で『井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s』展。
井上有一は好きな書家だが、この展覧会を見て、少し、見方が変った。
当人は、望んだのかどうか、わからないが、80年代から、有一の書は、グラフィックデザイナーやコピーライターなど、いわば、欲望産業の代理人達によって、広告に使用されるようになる。
有一の書は、資本に包摂されることで、バブル経済の真っただ中に、パルコや西武百貨の文化と一体で、一般に知られるようになって行くのである。
これが、宮沢賢治の『農民芸術概論』の思想から影響を受けて「書の解放」を唱えた有一の思想の帰結だったのか、と思うと、操上和美が禅僧のような趣に撮った井上有一の渋いポートレートも、色あせて見えてくる。
有一の書の広告利用の流れは2000年代になってもある。
この転換点は1970年で、このとき、海上雅臣という十五歳年下の、プロモーターであり、理解者であり、批評家であり、画廊経営者である人と出会って、それまでの一字の書から多字の書へ変わっていく。
有一の一字書の集大成、『花の書帖』を、海上が出して、その出版記念会を行うことで、建築家や批評家、グラフィックデザイナー、コピーライターなどに知られていくのである。
有一は、名利を求めたか。そうかもしれない。
50年代から、世界的な潮流だったアクションペインティングや、アンフォルメルの文脈の中で、有一の書は西欧に受け入れられ、海外での展覧会も数多く行われてきたが、その流行が終焉すると、有一の書は顧みられなくなる。
そのタイミングで、海上との出会いがやってくる。
しかし、有一が名利を求めなかったとしたら、彼の「花」や「貧」や「心」は、そして、なにより、「噫横川国民学校」は、我々の眼に触れず、残らなかったかもしれない。
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その後、靖国神社へ行く。
東京は、長いが、きょう、初めて靖国へ行った。
事の是非は置き、「英霊」に参拝する。
遊就館を拝観する。
戦争の攻撃や攻略、作戦の展示は詳細だが、そして、特攻攻撃の悲劇の展示は詳細だが、大陸や半島での加害の実態は、きれいに消えている。
展示の最後に、「回天」を始めとする特攻兵器の実物が展示されている。
黒々とした「回天」を見たとき、衝撃を受けた、その「孤独」に。
そして、その孤独に泣けてきた。
「回天」は私が想像してきたものよりかなり長大で、それを6、7艇も伊号潜水艦に装着して敵艦近くまで運搬するのである。
帰りのルートに、「英霊」達の若く明るく屈託のない写真が、数多く展示されている。
とても、顔を一人一人見られない。
『英霊の言乃葉』という遺書が現在12篇まで出ていて、一冊、500円で販売されている。
そこに書かれた若者達の言葉を見ていて、午前中に見た、同世代のコピーライター達の書いた言葉と比較するとき、複雑な感慨を覚えざるを得ない。
たった40年で、ここまで、社会とその心は変ってしまう。
もちろん、若者に遺書など書かせる社会を再現させてはならない。
きょうは、社会的空間としての追悼のあり方の調査のために、靖国に赴いたが、うまく、言葉にできない。
ただわかったのは、靖国自身は、「戦死者の霊を国家の守護神、護国の英霊として、社に祀るのは、古今を貫く日本人の信仰によっている」と主張しているが、その古今の古とは、ぜいぜいが、安政の大獄までしか遡れないということだった。
つまり靖国という神社は、近代日本の内戦の戦死者達を祀った慰霊のための社会的空間だと言えるだろう。
靖国神社は、日本の近代的な現象なのだと思う。
今後も、繰り返し行くことになる予感がする。