往還日誌(330)

 







■9月17日、水曜日、晴れ。

非常に暑い日だった。

終日、仕事。

きょうは、少し、仕事を頑張ってしまったので、深夜まで目が冴えて眠れず。

今朝起きて、『睡蓮、あるいは水の綾』を完成させる。

次のモチーフは、まだ降ってこない。


チャーリー・カーク殺害事件は、日本で伝えられているより、遥かに深刻な影響を、アメリカと欧州に与えている。

それは、宗教戦争の色彩を帯びている。

キリスト教原理主義とリベラル・左派・進歩派という宗教が、互いに、暴力の応酬をしている。

カーク殺害は、暴力の応酬の中で起きた。

暴力には、明示的なものと、非明示的なものがある。

カークを殺害したとされる、トランス女性をパートナーに持つ、狙撃者のタイラー・ロビンソンは、明示的な暴力だが、それに先行して、カークが、「ターニング・ポイントUSA」で公開した、暴力を煽ることを目的とした、2つのリストは非明示的な暴力である。

NYTの元記者で、 ピュリツァー賞受賞のジャーナリスト、クリス・ヘッジスは、暴力の応酬の結果の米国の分裂をこう述べている。

チャーリー・カークの暗殺は、分裂しきった、極度に二極化したアメリカ合衆国における新たで致命的な段階の始まりを告げている。

文化的分断を挟んで毒のあるレトリックや脅しが手榴弾のように投げ合わされ、それが時に実際の暴力へと溢れ出している――ミネソタ州下院の元議長メリッサ・ホートマンとその夫の殺害や、ドナルド・トランプに対する二度の暗殺未遂を含めて――中で、カークの殺害は本格的な社会崩壊の前触れとなっている。

彼の殺害は、彼が体現していたキリスト教ナショナリズムに根ざした運動に『殉教者』を与えた。殉教者は暴力的運動の生命線である。

暴力の行使に対するためらい、思いやりや理解を語ること、仲裁や対話を試みることは、殉教者やその殉教者が命を捧げた大義への裏切りとなる。(中略)

歴史は次に何が来るかを示している。それは楽なものではないだろう。

殉教者として高揚されたカークは、我々の民主主義を消し去ろうとする者たちに、カークがそうされたのと同じように人を殺す権利を与える。

国家権力の濫用や自警団的暴力から我々を守るために残っていたわずかな抑制を取り除いてしまうだろう。

カークの名前と顔つきは専制への道を加速させるために利用されるだろうし、それこそが彼の望んだところでもある。」。

カーク暗殺に言及した(自業自得などの祝福だけでなく、冷静な言及にも)人物へのMAGA支持者による暴力や脅迫は、アメリカで頻繁に起きている。

州立大学や大手メディアなどで、そうしたMAGA支持者の圧力に屈して、解雇も大量に起きている。

その頂点にいるのが、トランプ大統領やヴァンス副大統領、イーロン・マスクやスティーブ・バノンなど、MAGAのトップたちである。

彼等の言論や法規制への言及、解雇は明示的な暴力である。

他方で、リベラル・左派・進歩派のイデオロギーが推進してきた「ジェンダー肯定モデル」の、トランス希望者に対して持つ暴力性や、

トランス女性の女性に対する暴力性(トランス男性の男性への暴力性は問題化しないのは、男性支配原理が性をトランスしても残るのだろう)は、非明示的な暴力だろう。

ヘッジスは、カークの殺害は、専制への道を加速させるために利用されると主張している。

たしかに、今、米国で起きていることは、民主主義の反動化、つまり専制化と民主主義の民主化が争っているように見える。

暴力には、明示的なものと非明示的なものがある。

民主主義の反動化は、往々にして、明示的な暴力を伴い、民主主義の民主化は、「ジェンダー肯定モデル」のような、医療プログラムや制度・構造のような非明示的な暴力を伴ことが多い。

明示的な暴力には、当然、反対すべきだが、それだけで、済む話ではない。非明示的な暴力こそ、やっかいで難しい。それは不可視化され、無意識化されるからだ。

チャーリー・カーク殺害事件は、今後、日本においても、韻を踏んだ形で、再現される可能性が高い。




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