往還日誌(366)
ジェルジ・ルカーチ著『社会的存在の存在論』(1959-1971)
アリストテレスは、目的論的定立の存在論的な構造を正しく識別している。というのも、アリストテレスは、その本質(目的定立の本質)を、デュナミス概念(※訳注1)と不可分のものと考えているからだ。つまり、アリストテレスは、デュナミス(ドイツ語訳で「das Vermögen」)(※訳注2)を、「何かを良く行う能力、何かをある意図に基づいて行う能力(die Fähigkeit)」として規定しているのである。そして、この規定性は、そのすぐ後で、次のように具体的に述べられている。
「というのは、我々は、影響を受けた存在者がその根源(※訳注3)ゆえに、しかもその根源に即した仕方で影響されていることをもって(※訳注4)、その被影響存在者には、影響を受けうる能力(デュナミス)があると言うからである。
より正確に言えば、ある場合には、ある根源のために、しかもその根源に即して、影響を受ける存在は、そもそも単に任意の影響を受けるだけであるが、別の場合には、ある根源によって、しかもその根源に即して、その被影響存在は、単に任意の影響を受けるだけでなく、より善い態(ἕξις =hexis)(※訳注5)へと導かれていく影響を受けるのである。
さらに、デュナミスとは、善いこと、あるいは、ある意図に基づいて何かを行う能力のことである。というのは、我々は、単に一般に歩いたり話したりはできるが、それをよく行ったり、ある意図に従って行うことのできない人々を、彼らは話したり歩いたりする能力がないと言うからだ」。(※原注1)
アリストテレスは、このときのあらゆる存在論的なパラドクスを明晰に見通している。アリストテレスは、「現実化(エネルゲイア)は、本質的にデュナミス(可能態)に先行する(※訳注6)」と断言し、ここに存在する様相問題(※訳注7)を、きわめてはっきりとこう指摘している。「あらゆるデュナミス(可能態)は、相矛盾する両面を同時に持つ。というのは、存在するという可能態のないものは、常に現実化することもできないからだ。したがって、存在するという可能態は、あることもできるし、ないこともできる。つまり、同一のものが、存在する可能態を持ち、同時に、存在しない可能態を持つのである」(※原注2)
(※原注1)『形而上学』Δ巻、第12章、p.122、p.123
(※原注2)『形而上学』θ巻、第8章、p.217、p.218
(※訳注1)Dynamis(可能態=δύναμις)は、何かをなす力・可能性のことで、Energeia(現実態=ἐνέργεια、その可能性が実際に働き、現実化している状態)と対で使用される概念。
可能態(δύναμις)は、現実態(ἐνέργεια)への向かってのあり方、すなわち潜在的に現実態となりうる様態である。
アリストテレスは、Dynamisを2種類に分けている。1つは、能動的Dynamis(δύναμις ποιητική)であり、何かを生み出し、作用する力。もう1つは、受動的Dynamis(δύναμις παθητική)で、何かを受け取り、影響を受ける力を意味する。
アリストテレスは、存在のあり方を、Dynamis(可能態)―Energeia(現実態)―Entelecheia(完成態=ἐντελέχεια)の三段階で捉えている。
Entelecheia(完成態)は、目的を内に持ち、それを完全に実現し安定した状態を指す。その意味で、目的完遂態と言える。
たとえば、種子は潜在的可能性(Dynamis)であるが、やがて実をならせるまで成長する(Energeia)。植物は、このとき、成熟し安定し、完成している(Entelecheia)。
Entelecheia は 「完成された Energeia」と理解すると適切であるが、両者は完全に区別される概念ではなく、アリストテレス自身は交換的に使うこともある。
(※訳注2)das Vermögenは、アリストテレスの概念「Dynamis」のドイツ語訳として、ルカーチがあてた訳語で、一般的に、能力を表すdie Fähigkeit(技能や知識としての能力)と区別して使われている。
Vermögen は「構造的可能性」、「潜在的能力」であるのに対して、Fähigkeit は「運用可能なスキル」として使用されている。特に、ルカーチはVermögen を、「目的に媒介された社会的実践のなかで活性化される可能的力」として再解釈している。
ルカーチのVermögen(デュナミス)は、アリストテレスの存在のあり方の三段階に対応しつつも、目的定立を前提とした社会的実践に媒介されて、目的実現に至り、それが再び、新しいデュナミスの再生産のための基盤となる、という生成の循環構造の起点となっている。
(訳注3)ここで、「根源」と訳したのは、ルカーチのドイツ語訳のdie Quelleである。アリストテレスの『形而上学』の原文では、αἰτία(aitía)が使用されている。
ルカーチは、アリストテレスのαἰτίαに含まれる以下の4原因を含むドイツ語として、die Quelle(根源)という言葉をあてている。
1.作用因(efficient cause)2.形式因(formal cause)3.資料因(material cause)4.目的因(final cause)。
1.作用因(efficient cause:τὸ ποιητικόν αἰτία)とは、「誰が/何がそれを生じさせたか」=運動・変化の原因となる「働きかけ」を意味する。それは、「生産者」や「運動者」、「働きかけるもの」などであり、変化・生成の起点となる。
作用因は、変化を引き起こし、目的因と密接に関連し(目的のために動く)、能動性(ἐνέργεια)の源である。
たとえば、家の作用因は、建築家や大工であり、詩の作用因は詩人であり、人間の作用因は両親となる。
2.形式因(formal cause:εἶδος αἰτίαあるいはμορφή αἰτία)とは、対象が持つ形・構造・機能・本質のこと。
そのものをそのものとして成立させ、動的原理(目的・機能)を内在し、資料因に実際性(ἐνέργεια)を与える。
たとえば、家の形式因は、家としての構造や設計図であり、靖国神社の青銅像の形式因は、大村益次郎の姿となる。
形式因とは、形相が「原因として働く」側面とも言える。
3. 資料因(material cause: ὕλη αἰτία)とは、「何からできているか」を問題とする。つまり、対象の構成素材・基体のことである。
アリストテレスの言う ὕλη(ヒュレー)=資料/素材 は、単に「物質的な材料(木・石・青銅)」を指すだけではなく、何らかの形相(形式因の内容)を受け取るための可能態(dynamis)を担っているものを指す。
言い換えれば、資料(ὕλη)は、形相を可能にする受容性のことであり、必ずしも、「資料=物質」ではなく、「資料=可能態(デュナミス)を担う基体」である。
つまり、資料は、「まだ何でもないが、何かになりうるもの」のことと言える。したがって、資料は、物質的資料から精神的・論理的資料まで、階層的に存在することになる。
たとえば、木材は、テーブルの資料であり、テーブルは木材を資料因としている。
ある詩人の夢は、ある詩の資料であり、その詩はある夢を資料因としている。
ある命題は、ある論証の資料となり、ある論証は、ある命題を資料因としている。
法律は、制度的秩序の資料であり、制度的秩序は、法律を資料因としている。
柿という秋の季語(言語)は、正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の資料であり、子規のこの句は、柿という言語を資料因としている。
ちなみに、実際に、子規が聞いた鐘の音は、東大寺下手の茶屋で聞いた鐘であった(子規の随筆『くだもの』より)。
4.目的因(final cause :τέλος αἰτία)とは、事物の存在や働きの理由・目的のこと。
たとえば、家の目的因は、住むためであり、大村益次郎の青銅像の目的因は、日本軍の創設者、大村益次郎の顕彰のためであり、耳の目的因は、聞くのためであり、人間の目的因は、アリストテレスにおいては、善き生(εὐδαιμονία)の実現のためである。
(※訳注4)この句は「dank der Quelle, gemäss deren er affiziert wird」とあり、dank は影響の「原因・起因」を表し、gemäss は「その根源に即した仕方で・それに従って」という影響の様式を表す。
「gemäss deren」は、はルカーチがギリシア語の κατ’ αἰτίαν のニュアンスを反映させた部分で、アリストテレスは、「ある性質・根源・形式に応じて(=それに即して)」というときにκατ’ + 対格 を使う。
したがって、「A が原因となって B が起きる」のではなく、「A が持っている固有の方式(mode)に即して B が起きる」 という意味になる。
つまり、ルカーチはここで、「被影響者が影響される能力(Vermögen)を持つ」と語りうる根拠の二重性(原因としての根源+様式規定としての根源)を示していることになる。
このため訳では、単なる因果ではなく、「根源に即した仕方で影響されていることに基づいて、その能力を帰属させる」というニュアンスを示した。
(※訳注5)態(ἕξις =hexis)とは、容易には失われない、持続的で安定した「あり方」のこと。
(※訳注6)現実化とここで訳したのは、die Wirklichungで、これは、アリストテレスの概念であるEnergeia(現実態=ἐνέργεια)のことである。ここでアリストテレスは、エネルゲイアは、デュナミスより根源的、あるいは、存在論的に先行する、本質的に上位にある、という命題を述べている。この命題は、『形而上学』の中に頻出する。
これは、デュナミス(可能態)とエネルゲイア(現実態)が、最初から、ペアで並存しているのではなく、存在論的に見れば、エネルゲイアが基準となって、初めてデュナミスがデュナミスとして規定されるということである。
たとえば、木材が「机になる可能態」を持つと言えるのは、机という現実態(エネルゲイア)が、存在論的に先にあるからである。鶏頭の微細な黒い実が鶏頭になるデュミナスを持つのは、鶏頭というエネルゲイアによって、その実が鶏頭のデュミナスであることを規定するからである。
さらには、子供が「大人になる可能性」を持つというとき、現に存在する「大人」いう現実態の形相(eidos)が、基準として子供に働いているからである。
このように、デュミナス(可能態)は、必ず何かのエネルゲイア(現実態)を概念的な起源としている。
さらに、可能態(デュナミス)は、その完成形(エネルゲイア)の概念を知らなければ、それがデュナミスであると理解できない。このため、認識の序列で、エネルゲイアがデュミナスに先行する。
時間的にも、エネルゲイアはデュナミスに先行する。過去に実在した鶏頭の花という完成態(親世代としての形相、エネルゲイア)が、鶏頭の微細な種子の中にある「鶏頭になる」というデュミナス(可能態)よりも時間的に先行しているからである。
(※訳注7)様相(Modus, Modalität)とは、必然(notwendig)、可能(möglich)、不可能(unmöglich)、偶然的(zufällig)といった、事柄のあり方(modus)を表すカテゴリーのこと。
アリストテレスのパラドクスとは、「デュナミス=可能態は、必ず反対の二つの可能性を同時に含む」ということである。たとえば、「存在する可能性」 は同時に「存在しない可能性」を含む。可能態は相反する両方の可能性を持つ。この矛盾のことをルカーチは、様相問題(das Modälitätsproblem)と呼んでいる。
しかし、アリストテレスの「両価的デュナミス(可能態)」というパラドクスは、言語的二分法(ある/ない)への依存によって生じており、現実の連続性・確率性・非線形性の構造を取り逃がしている。
つまり、アリストテレスは、デュミナス(可能態)をp/not-p の二値論理(言語構造)で表そうとした。そのためデュナミス本来の姿(連続性・確率性)を「相矛盾の両面を同時に持つ」という言語的パラドクスとして表現することになった。
自然(physis)は、 p/not-p の二値構造ではなく、連続体(0~1)の確率分布構造を持つ。したがって、デュナミスの両価性は自然の本質ではなく、ロゴス(言語)の二分法が生んだ人工的矛盾と言える。
たとえば、「種子が木になる可能性」は二択ではなく、発芽率(0〜100%)、発芽するまでの日数(連続値)、成長速度(連続値)、気温・湿度など環境パラメータ(連続値)、土壌の栄養状態(連続値)、病気・捕食・風害などのリスク(確率的イベント)、遺伝的多様性に伴う形質(連続値)などの連続変数が、確率分布構造を形成している。
可能態を 0 と 1 の間の連続体として理解し、可能態を可能な結果の確率密度と理解すると、アリストテレスのパラドクスは消える。
この場合、確率密度は、可能態の微視的(局所的)な表現で、たとえば、一定の条件下で、種子が10cm 成長する可能性の強度のように、「個々の潜在的結果の起こりやすさ」の連続値を言う。
これに対して、確率分布構造とは、一つの確率密度ではなく、たとえば、枯死する強度、20cm 成長する強度、花が咲く強度、根が腐る強度や、その他の無数の潜在的結果の強度(確率密度)が 連続的に広がり、全体として構造(分布)を形づくっている。その確率分布構造を指す。
このとき、エネルゲイアは、言語的物象化として理解されてくる。言い換えれば、エネルゲイアの「完成形」は、自然界には固定的に存在せず、それは、ロゴスによる「安定性の投影」として理解できる。
自然界における「成長」や「生成」は、単一の完成態をめざす運動ではなく、多様な可能性の分岐と連続的変化の総体である。
アリストテレスは、その流動性を「完成形」(エネルゲイア)という固定点で切断し、そこから過去へ向けて可能態を定義した。そのため デュナミスは、言語構造の二値性を帯び、自然の多値的実在を十分に表現できなくなったと考えられる。
「A. ゲートウェイのヘミシンク(Hemi-Sync)テープを使用して脳の焦点を強化し、左右脳半球の同調を誘導する。
B. つぎに、強いREM睡眠周波数を追加して左脳の静止と深い身体的弛緩を誘発する。
C. 個人が意図的に深い自己催眠状態を誘発できるような強力な催眠暗示を提供する。
D. 自己催眠暗示を用いて集中力と動機づけの著しい強化を達成し、Focus 12の練習を高速で進める。
E. その後、AとBを繰り返し、自己催眠暗示で体外離脱(out-of-body movement)が起こり、記憶されるという念を強化する。
F. Fステップ(Eを繰り返す)を意図的に体外離脱状態を得て、それをREM睡眠状態が終わっても維持できるように変えた暗示へと強化する。
G. 体外離脱の観点からFocus 15と21の目標(時空からの脱出と新たな次元内での相互作用)に近づく。
K. Focus 12状態にある人々のグループが感受性の高い領域を囲むホログラフィックパターンを構築し、不本意な体外存在を撃退するようにする。
L. より進んだゲートウェイ参加者に、上級者のための迅速な進歩と達成を助けるための成功した到達および進歩のホログラフィックパターンを構築するよう奨励する」。
私が、この報告書に関心を持ったのは、人間の「死」の具体的な様相と、モンローの体外離脱体験は、かなり重なっているように思えること。
そして、INSCOMは、1983年時点で、早くも、意識を「情報として保存・変換されうるもの」と捉え、それを非局所的宇宙モデル(ホログラフィック宇宙)と結びつけた。この枠組みは、のちの量子情報論と非常に親和性が高いと思える。
その意味で、この報告書は、詳しく検討する価値があると思っている。
ただし、これは、軍事目的であるがゆえに、人間=兵士の意識が前提となっている。
人間種の意識の研究であるがゆえに、他種の意識あるいは主体の、意識変容(死への転移と響き合う)は、捨象されている。また、人間種と他種との意識の関係性総体の意識変容(死への転移と響き合う)も、捨象されている。
この点が欠点と思っている。
ちなみに、モンロー研究所は、現在も、バージニア州ファーバー、ロバーツ・マウンテン・ロード365番地で活動てしている。