往還日誌(362)

 







■12月14日、日曜日、雨、曇り、午後から晴れ間。

午前中、ヘーゲルの『精神現象学』を原文で読む会。きょうも「承認論」。

『精神現象学』は、最初は、知識論として読めると考えたが、この頃、存在論的な知識社会学の次元を持っているように思い始めている。

というのは、ヘーゲルにおいて、知識は、個人の頭の中で成立するのでも、超歴史的な真理領域で成立するのでもなく、社会的関係、たとえば、承認や制度、実践などの中で成立するからだ。

量子論など、現代科学において、対象は「発見される」のか、それとも「構成される」のかという、二択の問いが提出されることがあるが、ヘーゲルはこれを、対象は主観の恣意ではなく、単なる与件でもなく、媒介された運動の中で成立すると考えている。

この点が、ヘーゲルの「存在論的な知識社会学」の中核であり、恐らく、存在論的な科学基礎論へと通じている。

現在、私が翻訳しているニコ・シュテールの知識社会学シリーズは、マンハイム以後の経験的・記述的な知識社会学であり、従来の真理概念(認識と対象の一致を問題とする)に依拠している。

これとは対照的に、ヘーゲル知識社会学や、これに知的源泉を持つ、存在論的科学基礎論は、「何が対象として成立しているのか」、「その対象はどの媒介で、どの安定性を持っているのか」、「体系が自己の根拠をどこに置いているのか(外在か内在か)」、「矛盾がどこで生産的な分岐を生むのか」といった点を、存在論のレベルで捉えることをテーマとする。

したがって、この存在論的科学基礎論は、従来の対応真理型(認識論的な基準である、命題と対象の一致)科学を否定するのではなく、その基層に存在することになる。

ヘーゲルの「承認論」で言えば、対応真理型の科学では、主人は「自分は主人だ」という認識を正しく持っている(事実だから)のだから、問題は起きない。

しかし、ヘーゲルは、そこを問題にしている。ヘーゲルが問うているのは「主人は、主人であることに実在的に耐えうるか?」、言い換えれば、「主人が主人であることが、一瞬成立するのではなく、時間を通じて、自己を再生産し続けられるのか?」ということになる。

要するに、主人という存在様式は、他者の否定に依存することで成立した自己を、世界の現実的運動の中で(=実在的に)、自ら支え続けることができるのか? という問いである。

これを、存在論的な科学基礎論に引き寄せれば、科学が自分自身を、承認や制度、歴史、実践といった、世界の現実的運動の中で、どういう媒介運動を通じて、どう成立させ、どう持続させているかを問うことになる。ここには、「対象の成立」という重要な問題も含まれる。

私は、半分、隠棲しているようなものだから、忘年会といった世間的な付き合いは、ほとんどない。それでも、年に1、2回はある。

それが昨日だった。

いろいろ、面白かった。

きょうは、夕方、家族に夕食を作る。買い物して、3品作ると、それ相応の時間はかかる。






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