仏教――ひとつの個人的な経験
仏教――ひとつの個人的な経験
尾内達也
公開講座『ルカーチの存在論』の後の飲み会が終わった後だったと記憶するが、講座の主催者で、世界的なルカーチの専門家だった、故石塚省二先生に、こういう質問をしたことがある。「先生、人間は死んだら、どうなるんですかね?」。「いや、なんにもないよ」。答えは、ためらいもなく一瞬であり、そっけないものだった。「いや」を強調したイントネーションまでよく覚えている。なにもない、それ以外ありえないという感じの答えだった。
当時は、スピリチャル・ブームで、今では、全く姿を見なくなった、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏が、テレビに頻繁に登場して、高視聴率を稼いでいた時代だった。私の質問は、こうした時代風潮に、多少なりとも影響されたものだったのかもしれない。
自他ともに、唯物論者と認めていた先生は(ただし、単純な唯物論者ではなかった。機械的な唯物論者なら、観念論者の方を高く評価すると言って、プラトンとヘーゲルをあげた)、宗教について、こう述べたことがある。「宗教は信じ込んでしまえば、取り込まれてしまうが、読み解けば哲学になる」。この言葉は、若い頃より、宗教現象に関心があり、精神的に苦しかった時期に、カトリックに何度か急接近したことがある私にとって、今も、宗教に対するときの基本スタンスになっている。
その先生も、十年前に鬼籍に入られた。坂東市にある浄土宗の寺院、高聲寺で、覚雲省全信士といういかにも哲学者らしい戒名で眠っている。先生は、人間行動に対する、社会の経済的側面だけでなく、その文化的側面の影響を生前、よく強調していた。急病で亡きあと、「仏弟子」として埋葬されたことも、想定内だったろう。「な、そうだろ」という声が聞こえてきそうである。
本稿では、仏教に関する個人的な経験をお話したいと思う。
私は、二十代から詩を書いており、詩を書く中で、シベリア抑留経験のある詩人で、日蓮宗・不受不施派に関する高水準の実証研究を行っていた鳴海英吉(一九二三―二〇〇〇)という詩人を知った。
この詩人に導かれるようにして、不受不施派に関する、現地調査も含む、調査研究を行ったことがある。不受不施派というのは、江戸時代、キリシタンと同様に禁門となり、激しい弾圧を受けた日蓮宗の一派であり、法華宗を媒介とした僧と信者の排他的関係を表す考え方である。
「『不受』の名称の由来は僧に関することで、法華不信・未信の者から、布施供養を受けぬことを意味し、『不施』とは、信者に関することで、法華宗以外の僧には、供養をせぬことを意味します」(宮崎英修博士)。これは、日蓮教団にとっても、仏教各宗全般にとっても、普遍的で自然な考え方だった。
しかし、信者の位置に国主などの不信・未信の権力者が、現われた場合、当該の宗教教団にとって大問題になった。
この大問題が初めて起きたのが、文禄四年(一五九五年)九月十日だった。豊臣秀吉が東山妙法院に大仏を建立し、先祖亡父母追善のため千僧供養会を行うべく、仏教の各宗派に対して招請状を出したのである。もとより秀吉は、法華宗の信者ではない。このとき、秀吉の召喚に応じたのは、真言宗、天台宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗の関西学派だった。
京都妙覚寺の日奥(一五六五―一六三〇)は、秀吉の招請を拒否するという判断を下した。強大な世俗権力と対決しながらも、教権を上位に置いたことで、このときの判断が日蓮宗不受不施派の起源になる。日奥、三十歳のときのことである。
日奥の言葉を引くと、「この世界は五百塵点より已来、教主釈尊の御領なり…この世界においては二主なし本主は只一人、これ釈尊一仏のみなり…」。
これは世俗権力から見れば、十分に危険な反逆思想だったことがわかる。
江戸時代になると、不受不施派は転換を余儀なくされ、教権は世俗権力の支配下に入っていく。寛文五、六年(一六六五、六年)に、不受不施は禁止されるが、この宗制を貫こうとする僧と信者は、地下にもぐって不受不施を堅持しようとした。こうして、不受不施の信条・制法は教義として独立し、特異な教団組織を形成し、非合法的活動によって秘密結社を持続していくことになる。この活動は、明治九年(一八七六年)に禁教が解かれるまで、約二〇〇年の間持続された。
不受不施の村は、現在も残っており、千葉県香取郡多古町島などがそれにあたる。島村は、全部落が不受不施派の信者集団である。村全体が中世の城跡であったことを巧妙に利用し、村全体が迷路になっている。道幅と家の入口を同じ寸法にして、槙の生け垣を廻し、外来者は、どこが道なのか、わからないようになっている。道はU字型に作られ、直線的に進むことができない。目的地があっても、迷うように工夫されている。私は、村で元総代さんの家への道を尋ねたが、村人も道順を説明できず、目的地まで、先導する軽自動車の後を小走りについてゆくだけだった。
道幅は狭くいったん島村へ入りこむと、迷って先に進めないため、背後から、村人に襲われたら、逃げ場がないと思ったが、あとで、元総代さんに聞いたところでは、この迷路は、徹頭徹尾、逃げるための時間稼ぎに作られたものであることがわかった。各家は、つながっていて、外来者が迷っているうちに、家と家を通じるルートを通って逃げるのだということだった。
日蓮宗・不受不施派という一六世紀後半に成立した日蓮宗の中の一宗教団体が、本格的な宗教史研究のテーマとしてクローズアップされるのは、一九六〇年前後以降と言っていい。文献資料として残っている最も古いものとしては、一七四三年に日源が著した『不受不施真偽訣』(上巻)があるが、不受不施派を正面から研究対象とした文献が現われるのは、比較的最近である。
なぜ、一九六〇年以降だったのか。鳴海英吉は、雑誌『思想の科学』一九六七年十二月号に発表したエッセイで、こう述べている。
「不受不施派の現証した、この驚くべき抵抗、長い期間を背教者もなく持続してきたものはなにか。百姓一揆的な形態ではなく、静かな信仰ということの示す恐ろしいまでの精神のきびしさ、これは一体何でしょうか。
現在、ベトナムの仏教徒の焼身自殺をバーベキューといった権力者は、それだけしか理解できなかったのです。
焼身自殺がベトナムの人々の中に消えることなく燃え語り継がれることを少しも理解できないのです。(中略)宗教とは、人間の生と死を語る思想体系です。決して経典に埋められるものでもなく葬式屋の飾物ではないのです。
僕はこの研究を、安保闘争の少し前から始め、抵抗とはなにか、そして土着日本人の泥くさいツラ構えの中にこれがあるかどうか、そして工場労働者の僕のツラにこの構えがあるかどうか、いつも問い続けています」。
不受不施派の研究が、過去の民衆の抵抗から学び、行動へと開かれたものであることが伝わってくる。そして、この研究の背景には、明らかに、ベトナム戦争、安保闘争といった時代との呼応が感じ取れる。
不受不施派の代表的な研究者、相葉伸博士も、宮崎英修博士も、鳴海英吉も、戦争を経験している。不受不施派研究は、社会の動向と無関係ではなく、むしろ、時代的に民衆の抵抗を必要としたからこそ、テーマ化されたものだったと言えるのである。
紙幅が尽きたようである。本稿では、三つの個人的な経験を語る予定だった。他の一つは、私が、現在、思索している時間空間論である、「T-N-S Theory」の理論的な源泉の一つとなった道元の時間論である。もう一つは、ごく最近出会った初期仏教の衝撃についてである。また、機会があったら語りたい。
本稿の日蓮宗・不受不施派の論考は、二〇一四年九月六日に市川文学プラザにおいて開催された「第七回鳴海英吉研究会」において、講演した原稿を元に、加筆・編集したものである。