往還日誌(324)
■8月30日、土曜日、晴れ。
京都へ戻る途中に、途中下車して、豊田市美術館へ行ってきた。
モネ展を観るのが目的だった。
たいへんいい展覧会で、いい気分転換になった。
モネは73歳で白内障の診断を受けて、83歳で右目の手術を受けている。
亡くなったのが86歳である。
今なら、白内障の手術は日帰りでできる確度の高い手術だが、モネが10年も手術をしなかったのは、手術によって失明を恐れたからだった。
83歳のときの手術は成功したが、晩年の10年以上も、色彩の正確な識別ができない状態だった。
この身体条件やそれに伴う心理状態が絵に現れている。
それは、かたちの秩序を生成の混沌へ戻すような、始原と終焉をつないだような感じを受けた。
モネ晩年の作品を、抽象画の源流と見る見方もあるのは、わかる気がする。
モネが睡蓮の池を造成するのは、53歳のときで、このとき、セーヌの支流から、その池に水を引こうとして、地元の住民に反対に遭っている。
この住民の反対は先鋭的なものにはならずに、時間ともに、認められていく。
これも、面白いと思った。なんとなく、認められてしまうのである。
その裏の事情もあったに違いないが、それは詳しく語られていない。
モネが買い取って、睡蓮の池などを造成した土地の図面も展示されていたが、これは、画家の、たんなるアトリエ付きの邸宅を完全に越えている。
今でいう、公園造成工事のようなもので、敷地自体が広大で花壇や植物も豊富に植えられている。
今、このノルマンディーのジヴェルニーのモネの邸宅は、修復工事を経て、1980年以降、一般公開されている。
モネで興味深いと思ったのは、国家との一体感情である。
1918年11月12日、第一次大戦休戦の翌日、友人で当時の首相だったクレマンソーに手紙を出して、国家に装飾画を寄贈したいと申し出ている。
1920年に、12点の睡蓮の装飾パネルをフランス国家に寄贈することに合意して、専用の展示館の建設に着手するが、資金不足て頓挫して、現在のオランジェリー美術館での展示に変更となる。
モネの、この睡蓮の装飾画の寄贈は、これで、国家の戦争に貢献するつもりだった、ということなのである。
モネの息子は、第一次大戦で戦死している。ほかにも、多くの知り合いが命をかけて、フランス国家のために戦っている時に、自分は絵などを描いていて、いいのだろうかという自問があったようである。
結局、自分は絵しか描けないから、絵で国家に貢献するという発想になる。
反戦平和というよりは、国家に貢献したい、という気持ちだったようである。
「愛国」というのは、観念に対する愛に他ならない、というルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの名言があるが、現代の国家は、一部の利権村によって、その利益のために、偽装・操作されたコミュニティーである。
モネの友人だったクレマンソーなどは、典型的に、この国家利権村の住人であるが、騙している当人も、その自分に騙されているというのが、戦争なのである。
豊田市美術館は、ドイツの現代美術家、アンセルム・キーファーの1990年の作品「飛べ! コフキコガネ」を常設展示している。それが最初の写真である。
コフキコガネとは、コガネ虫科の昆虫のことで、このキーファーの絵には直接描かれていない。
近くにいた美術館のスタッフの人と話していて、絵の中央にある、不時着したプロペラ戦闘機が、それにあたるのではないかという点で意見の一致を見た。たぶん、コフキコガネで喩えたのだろう。
常設展は、現代美術が大半を占めるが、モネの絵を見たあとでは、どれもが、安っぽく見える。
唯一の例外が、このキーファーの作品だった。
これは、イスラエル軍による「ガザ虐殺後の世界のありよう」にしか見えない。
この作品は、モネの睡蓮と拮抗している。そんな風に感じた。
「睡蓮の翳――紋と綾」、そんな詩を考えているが、モネの絵を見た後では、書くのが一層、難しくなった。
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数日前に、ニコより助言が2つあり、出版に苦闘している私には朗報だった。
既存の出版社10社に、ニコの大著の出版を打診したが、ことごとく、断られてしまった。著作の社会性は認めつつも、市場性に欠けるという理由からである。
しかし、この助言によって、方向性は出た。