■2月22日、日曜日、快晴。
きのう、午後から、西宮へ。始めて西宮市役所近辺を歩く。このあたりは、関西学院出身の私とっては、懐かしい甲山を水源とする東川が、大阪湾へ注ぐ河口付近になる。
東川の西岸には、楠の大木が何本も屹立している。市役所や、市民会館、勤労会館などの敷地にも生えている。写真は、そのうちの一本。
市民会館で、大阪哲学学校の主催の講演「多世界か一世界か──量子もつれ・時間・歴史・そして責任(仏教との接点)──」に出席。
いろいろ勉強になった。
私が述べたのは、次の4点であるが、ほとんど理解されなかった。
1.物理学は、法則や理論を普遍性あるものとして提示するか、それは本当か?
たとえば、人間の時間感覚のベースにある「一瞬」の識別は、1秒間に18回(視覚でも聴覚でも触感でも)だが、闘魚は1秒間に30回以上、かたつむりは、1秒間に3回か4回。
これは、すばしっこい獲物を追っている闘魚においては、対象の動きは、人間の視覚には捉えられなくても、闘魚には高速撮影したようにゆっくり見えている。ちょうど、優れたバッターには、ボールが止まって見えるのと同じように。
逆に、かたつむりは、その動きは、人間の目には、非常に遅く見えるが、かたつむり自身の「環世界」においては、ゆっくりではない。
時間は、種の「環世界」に大きく規定されており、人間の「環世界」を、基準として、成立しているのが物理学であり、その知識は普遍的ではない。
人間種の内部的には、客観性や普遍性は成立しているが、時間のありかたは、その種ごとに異なっている、という反省が、理論的に欠けている。
空間においても、事情は同じである。
なので、客観性や普遍性の代わりに、「交通確率」(comunicative probability)という概念で、客観性や普遍性を再定義したらどうか、という提案をしたが、論点をレイヤーの問題にすり替えてしまっている。
2.知識の時代・社会制約性
省略
3.西欧に源泉のある知識の持つ人間中心主義性(これは理論構造の持つ差別性とつながる)
省略(エプスタイン事件とも関わるが長くなるので省略)
4.アインシュタインもハイゼンベルクも、自然的存在と社会的存在の区分をせず、すべてに妥当する理論として構築しているが、この2つの存在の連続性と断絶性の両面を踏まえるべきではないか?
量子力学の「観測者問題」(物理法則の中に観測だけが異質なプロセスとして混入しているという問題)は、社会的存在と自然的存在を区分する大きな要素である「労働」の問題として議論できると私は思っている。
ルカーチは、労働を「社会的実践モデルとしての労働」として拡大して理解している。つまり、労働の存在論的な分析をすれば、他の社会的実践も存在論的に理解できるという趣旨である。
観測者は、社会的存在であるから、この「社会的実践モデルとしての労働」論を理論的に適用できる。その際、自然的存在と社会的存在の断絶性と連続性に無自覚な物理学から生じている観測者問題に、別の、もっと根本的な光を当てることができると、私は思っている。
とりあえず、この問題からテキストを作成してみることとした。