京都日誌(405)

 






■4月13日、月曜日、曇り。湿気の多い一日だった。

その低気圧のせいか、朝方は、頭痛がひどかった。

BW体操を行い、血流とリンパの流れを良くして、食事を食べたら、かなり頭痛は収まった。


きょうは、買い物と洗濯以外は、ニコの仕事に専念。

早く、今の著作を出して、次に進みたい。

今、校正作業を行っているニコの著作には、知の新しい概念が出てくる。

それは、行動する能力を含んだものとして知識を考えるという意味で、知識能(Knowledgeability)と概念化されている。

これは、行動が知に含まれるため、AIの知とは異なって、身体性と主体性が含まれることになる。このため、痛みや哀しみ、怒りなどの情念にも、この知は開かれることになる。

しかも、AIの知を排除せずに、それをも、行動、つまり人間の主体性・身体性・情念性とリンクする形で、取り込むことができる。

つまり、知識能(Knowledgeability)という知のあり方には、記号だけで構成された知識体系が、どうやって現実と結びつくのか、という接地問題が存在しない。

この本を訳すのに、相当な時間がかかってしまい、申し訳なく思っているが、一巡して、時代の先端に出た気がする。

ニコの知識社会学は、知識能(Knowledgeability)以外にも、常識(common sense)と実現知(eabling knowledge)に、重要な理論的な位置がある。

この知識能(Knowledgeability)は、労働を行う存在、言い換えれば、開かれた環世界を持つ、社会的存在である人間の知の性格(自然的存在の知のあり方から区別される)を、肯定的に定義するものになるだろうと思っている。

ニコに、日本語版序文をお願いして、訳者あとがきで、こうしたことを議論してみたいと思っている。


米国を動かしているのは、米国大統領ではなく、イスラエル・ロビーとイスラエルであることが、今度のイラン戦争で、誰の目にも明らかになった。

アリソン・ウェアによる、2014年の『カウンター・パンチ』の記事、第2回。

この記事は、自著である『Against Our Better Judgment』の抜粋となっている。

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シオニストによるキリスト教支持の形成

AZECの創設者シルバーをはじめとするシオニストたちは、シオニズムへのキリスト教徒の支持を生み出す上で重要な役割を果たした。

シオニストの秘密資金(1946年には15万ドルに達した)は、エリート主義的なプロテスタント団体「アメリカ・パレスチナ委員会」の復活に使われた。この団体はもともと1932年、シオニスト機構執行部メンバーのエマニュエル・ノイマンによって設立されたものだった。その目的は、主にユダヤ人以外の著名なアメリカ人をシオニズムへの道義的・政治的支持のために組織することにあった。フランク・ファーターはその発足式での主要な演説者の一人だった。

シルバーの本部は「すべてのコミュニティで、アメリカ・キリスト教パレスチナ委員会を直ちに組織せよ」という指令を発した。

著者ピーター・グロスによれば、キリスト教委員会の活動は「ほとんど自律的ではなかった」。シオニスト本部は聖職者たちに事前に相談することなく、彼らの名義で新聞広告を出すことを何とも思わなかった——委員会のリーダーの一人が、少なくとも自分たちの名前で声明が公表される前に事前通知をするよう、おずおずと求めるまでは。

AZECはさらに聖職者たちの間に「キリスト教パレスチナ評議会」という別の団体を組織した。AZECの内部メモには、両団体の目的は「キリスト教アメリカのシオニズムへの共感を結晶化させること」にあると記されていた。

第二次世界大戦の終わりまでに、キリスト教パレスチナ評議会は3000人の会員を擁し、アメリカ・パレスチナ委員会には上院議員、下院議員、閣僚、知事、州の役人、市長、法律家、聖職者、教育者、作家、出版人、市民・産業界のリーダーなど6500人の公人が名を連ねるに至った。

歴史家リチャード・スティーブンスは、キリスト教徒の支持が主に、困っている人々を助けたいという彼らの願望を利用することで獲得されたと説明している。スティーブンスによれば、シオニストたちは「迫害から逃れる難民(※ヨーロッパ、特にナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人が行き場を失っていた状況)たちの悲惨な状況」を訴え、難民問題とパレスチナを唯一の解決策として結びつけた。

スティーブンスはこの戦略の理由を次のように説明する。「多くのアメリカ人がユダヤ国家の創設を支持しないとしても、難民問題を通じてアメリカ伝統の人道主義をシオニストの大義のために利用することができた」

こうしたキリスト教徒の支持者のほとんどは、ユダヤ国家の創設がパレスチナ人口の大多数を占める非ユダヤ人数十万人の大規模な追放を伴い、新たな長期にわたる難民問題を生み出すことになるとは、まったく知らなかった。

また、1947〜49年のイスラエル建国戦争の最中および戦後、シオニスト軍が数多くのキリスト教聖地を攻撃したことも知らされなかった。元タイム誌エルサレム支局長でイスラエル・パレスチナに関する5冊の著書を持つドナルド・ネフは、1948年5月(イスラエル建国の月)のシオニストによるキリスト教聖地への攻撃を詳細に報告している。

ネフによれば、その月、キリスト教指導者のグループが、シオニストが子ども、難民、聖職者を含む多数の人々をキリスト教の教会や人道支援施設で殺傷したと訴えた。

たとえば、「コプト正教会の修道院へのユダヤ人の砲撃で多くの子どもが死傷した」、「アルメニア正教会の修道院では8人の難民が死亡し約120人が負傷した」、「聖マルコ正教スリア教会では司教秘書のピエール・ソミ神父が殺害され2人が負傷した」などと告発した。

「この声明(※1948年5月に、キリスト教指導者のグループが発表した声明)は、アラブ軍はキリスト教施設を尊重するという約束を守ったが、ユダヤ人は強制的にキリスト教建物を占拠し、教会への砲撃を無差別に行ったと述べていた」とネフは報告している。

カトリックの神父の言葉も引用されている。「ユダヤ人兵士が私の教会の扉を壊して多くの貴重な聖物を奪い、キリストの像を近くの庭に投げ捨てた。ユダヤ人指導者たちは宗教的建物を尊重すると保証していたが、彼らの行動は言葉と一致していない」

シオニスト兵士が、ティベリアの修道院に侵入して略奪した後、米国領事館はエルサレムのキリスト教施設に対する「ユダヤ人の態度」を非難する強い言葉の公電を国務省に送った。

あるアメリカ人キリスト教聖書学者もこれに同意し、エルサレムにいる友人が次のように言われたと報告している。「我々が支配権を握ったら、死んだキリストを連れて家に帰れ」

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このアリソン・ウェアの書き方は、事実ではあるが、シオニスト軍の暴力文化の生成過程に目を向けなくさせてしまう。

1948年当時のイスラエル建国世代の指導者・兵士の多くは、東欧・ロシア出身であり、ハガナーやイルグンなどの武装組織の幹部にも東欧系が多かった。

ダヴィド・ベングリオン(初代首相)も、ポーランド出身である。

そして、一部のユダヤ系移民は、ロシア革命や内戦(1917〜22年)を経験していた。ボルシェビキ党員にユダヤ系が一定数いたことは歴史的事実である。

暴力的な政治運動を経験した世代が、パレスチナに移住したケースは、ユダヤ史の世界的な権威、ヤコヴ・ラプキン教授も指摘している。

このシオニズムの暴力について、ラプキン教授は、こう述べている

ユダヤの伝統と暴力

ユダヤの伝統が暴力を忌避していたのはまったくその通りです。それが美徳だったのか必要性だったのかは別問題ですが。ユダヤ人は政治権力を持っていなかった。政治権力がなければ、暴力を行使することも、少なくとも暴力を集めることもできません。

ユダヤの学者やラビたちもこの問いを提起していました。「私たちが平和的なのは暴力を行使する機会がないからなのか、それとも原則として平和的なのか」と。中世スペインのユダ・ハレヴィもその一人で、『クザリ』という書物を著し、この問題を論じた対話が収められています。

シオニストの暴力について:二つの理由

シオニストの暴力について言えば、二つの理由があります。

一つ目は植民地的入植の論理です。世界中のあらゆる植民地入植において、すでに他の人々が住んでいる土地に異質な集団が入り込めば、摩擦が生じ、ほとんどの場合それは暴力に発展します。これはユダヤ教やユダヤの伝統とは何の関係もない。ヨーロッパ人が世界各地を植民地化しようとした際にも、まったく同じことが起きていました。

二つ目の理由として、先ほど述べたように、パレスチナに渡った若いシオニスト入植者の多くのことを挙げなければなりません。ロシア帝国から移民した人々のうち、パレスチナに渡ったのは1%未満という非常に小さなグループでしたが、非常に活動的で、明確な主張を持ち、献身的な人々でした。彼らが暴力を受け入れたのは、ロシア帝国での地下革命活動の経験があったためでもあります。

彼らの多くは、1905年の第一次ロシア革命において社会主義革命政党で活動していました。体制と戦う方法を知っており、敵と戦う方法も知っていた。また20世紀初頭のポグロム(ユダヤ人迫害)の際には、自衛グループも存在していました。

彼らは、すでにこうした経験を持ってパレスチナに渡りました。そして、非常に重要なのは、政治的テロリズムの経験も持っていたことです。革命的地下運動はまさに政治的テロリズムを実践していたからです。

1881年にサンクトペテルブルクで皇帝アレクサンドル2世を暗殺したのも、彼らです。もちろんその暗殺にユダヤ人が直接関与したわけではありませんが、ユダヤ人は、そうした革命グループの中で人口比を超えて多く占めていました。おそらく最も抑圧された部類の人々の一つだったからです。

こうした若いシオニストたちが、新しい社会主義社会を建設するためにパレスチナへ渡った時、現地の住民と対峙することになった。そして入植の初期からこの経験を活用しました。

私の知る限り、シオニストによる政治的テロリズムの最初の犠牲者はユダヤ人でした。1924年のことで、エルサレムで宗教的反シオニストの代弁者として活動していたオランダ系ユダヤ人、ヤコブ・ダ・ハーンです。

彼は非常に尊敬されているラビたちの声となって活動し、ラビの代表団をロンドンに派遣して、シオニストによる国家掌握を阻止するよう当局を説得しようとしていました。彼は1924年、シナゴーグを出るところを暗殺されました。その試みは、実現しませんでした。後に実行者たちはそれを認め、その行為を誇りにしていました。これは仮説ではなく、歴史的事実です。

こうして政治的暴力とテロリズムの伝統がパレスチナに持ち込まれ、シオニストのグループによって長きにわたって実践されていったのです。

非暴力のシオニスト派閥はあったか?

もちろん、様々なグループが存在しました。パレスチナのシオニスト運動の指導者のほとんどはロシア帝国出身で、先ほど説明した背景を持っていました。しかし他のグループもいました。

特に、ドイツ系ユダヤ人がシオニストのインフラ——産業的・知的インフラ——の構築において非常に重要な役割を果たしました。特に、1933年以降、ドイツでヒトラーが選挙で権力を握った後にパレスチナに渡った人々です。

彼らの多くは「分離発展」の考えに反対していました。南アフリカのアパルトヘイトという言葉ではなく、それよりも古いヘブライ語の「ハヴダラ(分離)」という概念で、別個の経済・別個の社会をパレスチナに作るという考え方です。著名なドイツ系ユダヤ人や一部のアメリカ系ユダヤ人が「ブリット・シャローム(平和の同盟)」などの団体を結成し、現地住民と移民ユダヤ人が共に暮らす共同国家を主張していました。

ちょうど私が住むモントリオールのように、異なるグループが共に生きていく形です。必ずしも互いを愛しているわけではないにせよ、共に暮らすという。

しかしこれらのドイツ系・アメリカ系ユダヤ人はロシア系シオニストに敗北しました。1960年でさえ、イスラエル議会議員の3分の2がロシア帝国生まれだったほどです。1921年以降は、ロシアからどこへも移民できなくなっていたにもかかわらず。

それほど、シオニストの歴史においてロシア系シオニストの役割と、暴力とテロリズムの政治的伝統のパレスチナへの移植は重要なのです。それが今やイスラエルの共通文化となりました。ラビン首相の暗殺者はイエメン系ユダヤ人でした。しかしこのロシア的伝統、ロシア革命の伝統は、イスラエルの伝統になった。今日では、特定のロシア人に結びついたものではなく、アラブ人を、パレスチナ人を見る際の標準的な行動様式・思考様式になっています」。




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