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6月, 2025の投稿を表示しています

一日一句(5728)

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  経写す筆の乱れや夏の月

一日一句(5727)

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  壬生寺千体仏塔 千体のほとけの顔はみな涼し

一日一句(5726)

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  青瓜や京に見事な竜の雲

一日一句(5725)

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  いかづちは虚空をひとつゆらしをり

往還日誌(312)

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  ■6月28日、晴れ。 朝一番で、きのうの夜、洗濯したものをコインランドリーへ持っていき乾燥機にかける。 その後、食事。 コインランドリーへ取りに行き、掃除、毛布を干す。 心身調整と歩く瞑想。 午後から、神戸へ向かう。 高速神戸駅のアーケード街の喫茶店で、友人たちに詩集を渡す。 3時間くらいおしゃべり。 京都からJR神戸駅まで、新快速で約1時間。 行きも帰りもケインズの『確率論』を読んだが、行きも帰りも、途中で寝てしまった。 日本語の文章構造と英語のそれとは異なるので、翻訳が悪いとは言わないが、元の英語の文章の方が、明晰なのではないかと、思った。 一文が長く、関係節が多そうなのは、わかるので。 ★ 神戸に着いたのが少し早かったので、神戸駅の駅ビルに入っていた「上等カレー」というのを食べてみた。 カツカレーを頼んだのだが、神戸では、あるいは、その店では、「とんかつカレー」と呼んでいた。ふいを突かれた。確かに、とんかつカレーが正式であろう。 カツカレーは省略名である。 たいへん大きな楕円の皿の中央に、ご飯が盛られて、その上に、とんかつが載り、その上に、カレーがたっぷりかかっている。 知らない土地で空腹になったとき、なにを食べるべきか? 私はカレーと決めている。ほぼ外れがない。 このカレーで感心したのは、このとんかつの切り方だった。通常、揚がったカツを包丁で横に切っていく。店によっては、かなり細長くなる。 「上等カレー」は、最後に、縦に切るのである。この結果、カツは完全に一口大となる。 カレーはスプーンで食べるのが相場なので、細長いカツよりも一口大の方が明らかに食べやすい。細長いカツカレーのカツは、スプーンから落ちてしまうこともある。 ★ ついでに、思い出したのだが、これは京都の話だが、先日、出町商店街近くの今出川通を歩いている時、職人が、工事で出たと思われる、古い長方形の石を運んできたところに出会った。 作業や労働の仕方というのに関心があるので、しばらく、観ていた。 後から、年配の職人が手ぶらで来て、この石について、この石どないするかやな、というようなことを言っている。 先に石を運んできて、軽トラックの前に、その石を運び置いた、やや若い方の職人が、運転席に戻って、手袋をして、2人で、石を持ち上げて、トラックの荷台に移すようなのである。 2人で重い石をもちあげて...

一日一句(5724)

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  青瓜やひとりの頃の雨の音

往還日誌(311)

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  ■6月27日、曇り、晴れ間あり。 午前中、弓道の体験に参加。 まったく初めてだった。 弓道には、所作が厳格に定められており――腕の運び、指の使い方、足の開き方、矢の持ち方や弓の位置など――、それらをまず、細かく指導される。 初めての身体の動きであるから、言葉の意味するところがよく呑み込めない。 したがって、言葉に身体の動きを一致させていく作業は、言葉に身体の動きが追い付かない状況となる。 その細かい所作と形式性の中に、矢を射る、という行為が埋め込まれている。 矢を射るのが、所作の目的というよりは、矢を射ることそれ自体が所作の一つであるように思える。 最初は、矢を射るまでの所作の厳密性と形式性のため、心身が混乱し、矢を射るという原初的な行為がスムーズにできなくなり固まってしまう。 矢は放たれたが、的まで行かずに、途中で落ちてしまった。 それが2回あった。 次の順番のときには、所作の厳密性に関する言葉は、ほとんど、聞き流して、矢を射る行為に集中した。 矢は的に中ったが、今度は、矢を射る行為を意識しすぎて、 弓を放すときの「放れ」がうまくいかない。 放つ瞬間に両手(弓を持つ左手も矢を引く右手も)が上に上がってしまう。 師範が弓を押さえてくださっていたので、矢は水平に飛んだが、その押さえがなければ、矢は上方に放たれていたという。 この「放れ」ということが、弓道の一つのポイントであるように今日は思えた。 いづれにしても、瞑想を含む、心身調整を、ほぼ毎日行っている、その統合の焦点が、弓道に定まっていくような気がする。 ★ 帰りは、壬生寺に参拝。 さらに、聚楽廻の中央図書館へ行き、カードを作り、さっそく、ケインズ全集を借り出してきた。 帰りは歩いた。 帰宅すると、たいした運動量でもないのに、じわじわ疲労感が募ってきた。 身体と言語の初めての関係性に疲労したのだと思う。

一日一句(5723)

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  一の矢の的を射てたる涼しさよ

往還日誌(310)

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  ■6月22日、日曜日、晴れ。 午前中、ヘーゲル『精神現象学』を原典で読む会。 朝食のあと、娘の遅くなった誕生日祝いのケーキを急いで食べて、のぞみで京都へ。 ヘーゲルとアリストテレスは、きちんと勉強する価値のある理論家であり、ルカーチ理解にも有用。 イラン系アメリカ人のハミッド・ダバシのヘーゲル批判も気になっているが、まだ、その本『イスラエル―アメリカの新植民地主義』を入手できていない。 アメリカが、イランを直接攻撃したこの局面、まさに読まれるべき本だろう。 いつも鋭い分析を行うスコット・リッターは面白いことを言っている。 「 茶番劇だ。 トランプの大口は、彼自身を後戻りできない状況に追い込んでしまった。 だがイランは、その茶番に乗らなかった。 だから彼は、面目を保つためにイランを爆撃せざるを得なかった。 彼が爆撃したのは、すでにイスラエルにより攻撃されたことのある空の施設2か所。 そして『破壊した』と主張しながら、実際には破壊不能な施設(フォルドウ)に6発の爆弾を跳ね返されたに過ぎなかった。 以上だ。 『限定的な』攻撃。 中身のない、ただの空騒ぎだ。 それなのに、彼を『世界最高の指導者』と呼ぶ支持者がいる。 彼は国家の恥だ」。 フォルドウの被害状況次第で、イランのアメリカへの報復が決まってくる。 その意味でも、フォルドウの状況は重要だが、米軍の爆撃したイランの3つの核関連施設――フォルドウ、ナタンズ、イスファハンからは、最大60%まで濃縮されたウランは、米軍の攻撃のかなり前に、搬出されていて中は空だった。 茶番であれば、報復も茶番で応えることになるだろうが、問題は、アメリカが直接、主権国家を議会承認も宣戦布告も何もなしに、爆撃したという「事実」だろう。 これは放置できない。そもそも、合衆国憲法違反だろう。 さらに、問題なのが、攻撃したのが外国の「核関連施設」だったということである。いくら、地中深くに施設はあると言っても、放射能漏れの危険性がある。 これは、ロシアが占領しているザポリージャ原発にウクライナが砲撃を執拗に加えて、ロシア軍にせいにしてきたこと以上に大問題ではないか。 イランのアラグチ外相は、明日、ロシアへ行き、プーチン大統領と会談する。 もともと、米国との核交渉の中身については、逐一、イランはロシアに報告しており――ロシアは包括的共同行動計画(...

一日一句(5722)

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  夏の木の天をつらぬく戦火かな

一日一句(5721)

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  ミサイルの花火に似たる怖さかな

一日一句(5720)

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  夏至の鳥怖ろしきまでうち騒ぐ

往還日誌(309)

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  photo by romie lie ■6月18日、水曜日、晴れ、猛暑日2日目。 サイゼリアは、テーブルが広いので、読書をするには向いている。 平日であれば、お客さんが鳴らずピンポーンというコールも少ないので、集中できる。 ここのティラミスとプリンのセットが気に入って、若宮へ戻って以来3回も利用した。 ここで、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』を読了した。 ヘリゲルは、バリバリのナチスで、ニーチェ思想などを交えながら、実証主義哲学を批判しナチズムを称揚した論文「国家社会主義と哲学」や日本の特攻隊を思わせる玉砕の美学を論じた論文「サムライのエトス」などを書き、ナチス政権下で、エアランゲン大学学長を務めた。 このことは、日本では、ほとんど知られていない。 ヘリゲルは、美しい日本文化、特に禅と弓道の理解者、というのが一般的な日本人の受け止めだろう。 そういう面は確かにあり、『日本の弓術』は面白い本である。 ヘリゲルのナチス党員の面は、2006年くらいから、ようやく日本で知られるようになってきた。 ヘリゲルは、ハイデッガーほど哲学的にビッグではないので、それほど問題化しなかったが、ナチスへの協力では、ハイデッガーと変わらない。いや、それ以上かもしれない。 ただ、ヘリゲルは、第一次大戦で戦場に散った、ユダヤ人天才哲学者、エミール・ラスクの直弟子で、ラスクの著作集全3巻を編集している。 ★ ゲームに関心があり、5、6年前に、町のおもちゃ屋で購入した「algo」というゲームを若宮で始めた。 このゲームは、まだ始めたばかりで、よく感じがつかめないが、数字の大小に関する推論を要求されるもののようである。今は、ひとりで行っているが、複数でやると、また感じが違うのだろうと思う。 単純なので、すぐにゲームオーバーになってしまうが、少し、このゲームと付き合うつもりでいる。 京都でも、「コンピューター」というトランプ・ゲームをするために、トランプのゲーム本とトランプを持ち込んでいるが、まだ、一度も出来ていない。 ★ 東京でも京都でも観ることのできなかった「モネ 睡蓮のとき」展が、9月中旬まで、豊田市美術館で開かれることがわかった。 なんとか、観たいものである。

一日一句(5719)

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  虻飛んで羽音はのこる昼の耳

一日一句(5718)

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  四十雀天は高きにほどかれぬ