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4月, 2025の投稿を表示しています

一日一句(5681)

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  何様も素の人となる藤の花

一日一句(5680)

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  香りにもいろはありけり藤の花

往還日誌(294)

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  ■4月27日、日曜日。晴れのち曇り。 虎豆を煮た。 豆は好物だが、自分で煮たのは初めてだった。 電気圧力鍋で1時間くらいかかったが、手間はないので、今後、様々な豆料理に挑戦する。 夕方、北野天満宮から平野神社へ散歩。 葉櫻の平野神社はひと気がないが、草木が伸び放題で野趣がある。 北野天満宮は、東側に、文子天満宮という神社の起源になる神社をひっそり配置する。 これは、霊能力者で道真の乳母だった文子さんが、道真の宣託を受けて造った下京区の祠が発祥の神社で、これが、北野天満宮の前身の天神神社となった。 夜、ウィーンサークルとヴィトゲンシュタインの関係で、調べもの。 フリードリッヒ・ヴァイスマンというヴィトゲンシュタインより7つ下の興味深い哲学者を知る。 彼が、ヴィトゲンシュタインとの対話を記録して、これが著作集第3巻となっている。 その後、「アンチ金閣」第3番を書く。難航。 6月くらいから、金曜日は、丸々、ニコやライフワークに充てられることになった。 めでたし。

一日一句(5679)

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  逢魔が時皐月いよいよ真くれなゐ

往還日誌(293)

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  ■4月26日、土曜日、晴れ。 きょうは、久しぶりにゆっくりできた。 午後から、近所の千本えんま堂へ歩いて行く。 普賢象櫻が満開をすぎ、しきりに散っている。 今が見ごろを迎えている。 普賢象櫻は、散ったあとがむしろ花見どきとなる。 紅白で、一花ごとに散り敷くように散るので、非常に美しいからである。 白い花は新しく、時間を経過すると紅くなる。 寺の尼さんは、あすから、5月1日より始まる「大念仏狂言」の準備に入ると言っていた。 帰宅後、電気圧力鍋の勉強を行う。 原理的には、若宮で使っているものと同じだが、付属のレシピを見ると、どの料理も若宮のものより時間がかかる。 1.5倍から、中には2倍以上かかる料理もある。 この点は誤算であった。 時短用に購入したからである。 それはそれとして。 深夜、虎豆を水に漬ける。 夜、NHKオンデマンドで『光る君へ』第22回を観る。 ★ きのう、『週刊読書人』のオンラインイベントで、詩人の野村喜和夫さんと小説家の中村邦生さんの「 はじまりのときめきと不安をめぐるアフォリズム 」を視聴。 たいへん面白かった。 アフォリズムとしてすでに完成しているものばかりではなく、 読み手、あるいは生きている人間の側で、それが置かれた文脈から独立させ、 あるいは、アフォリズムの背景を想像することで、あるテクストを、「 アフォリズムと成していく能動的プロセス」こそ重要というのが、 お2人に共通する考えのように思えた。 そう考えると、社会学や哲学、経済学、あるいは精神医学などの「命題」も、そのように生成できるように思える。 実は、新しい理論の構築は、既存の理論の読み替えという作業が、どこかに必ず入るはずである。 それは、詩歌における本歌取りなどとも関連してくるだろう。 その意味では、テクストのアフォリズム化は、言葉と生命のもっとも深い関係を創造的に編みなおすことかもしれない。

藤田武の歌(8)

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  越えんとするおもいはふかく桃の木の はなびらのなかきらめく恥は ■藤田には、桃の歌が多い。櫻でも梅でもなく桃。 春の花の中で、桃の花は、梅と櫻の時期の中間にあたり、ともすれば、これらの個性的な花々の中で、紛れてしまう。また、寒紅梅なのか、緋桃なのか、分からないことも多い。 この歌は、一読したときの分かりやすさと裏腹に、よく分からない。一読、分からないが惹かれる。 それは、「越えんとするおもいはふかく」という措辞と、「はなびらのなかきらめく恥」の意表を突く取り合わせにある。 俳句なら、ここに、切れがあると見なすところだが、これは切れていない。 なぜなら、終わり方が、「恥は」だからである。 倒置法なのだ。 つまり、桃の花が「恥」を持っており、その桃の花に、「越えんとするおもい」があるということになる。 これは、己の想いを、作者の思い入れのある桃の花に託したものだろう。 花びらの中に、この恥はあると歌っている。 最も美しく最も儚く最も繊細なものの中にこそ、恥はあるという、この感性に私は惹かれた。 その恥は、「越えんとするおもい」とともにあるのだが、同時に、「きらめく恥」という措辞によって、この恥が否定されるだけのものではないことを、物語っている。

一日一句(5678)

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  うれしきは畳の素足藤の花

一日一句(5677)

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藤棚の一期一会は美しき

藤田武の歌(7)

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  日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に ふたたびは血噴け緋桃よ ■短歌と詩には、「予見性」というものがある。 この歌は、典型的で、「日日の翳負える時すぎ没しゆく終末に」というのは、作者本人は、予言ではなく、実感として詠んでいることはよくわかる。 しかし、これは一種の滅びの予言だろう。 「ふたたびは血噴け緋桃よ」は、これが2回目なのである。すでに1回、緋桃は血噴くように咲いている。 緋桃は、自然の条件が整ったときに咲くが、これは、あたかも、緋桃に咲く意思があるかのように歌っている。 「ふたたびは」という言葉の使い方がそうさせている。 さらに、「血噴け緋桃よ」と命じていることで、緋桃の咲くとき、血が噴き出て飛び散るかのような幻想を、読者にいだかせる。 花が咲くのは、普通の自然現象であり、人間は、それを愛でるのが一般的であるが、藤田は、この花が咲くとき、その対価として血が噴き出すと詠んでいる。 そして、すべての緋桃がそうなのではなく、この緋桃がそうなのであろう。 なぜなら、それは2回目だからだ。 ただ、この緋桃は、具体的な存在を持つとも限らない。 藤田のこの歌は、戦後日本社会という時空をテーマ化しているように見えるからだ。

往還日誌(292)

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  ■4月23日、水曜日。 日曜日に京都へ戻り、早くも3日。 大きな用事が2つ片付いた。これで、ニコとルカーチに専念する条件が整った。 日曜日は、横浜で句会。睡眠不足で途中で寝てしまう。 ひさしぶりに、みなさんと会って話して愉しかった。 親しくさせていただいている俳人のKさんに、干海老を入れた炒り卵がいけると聞いて、京都で試している。 最初に、玉葱とほうれん草と干海老をフライパンで炒めて、その後で、溶き卵を3個投入。 あすは、電気圧力鍋で、虎豆を煮込んでみる。 最終的には、ポークビーンズを作る。 ライフワークに、少し時間がかかりそうなので、健康な長寿をめざしているわけだが、そのための、心身調整と社会的条件の調整しか、意識してこなかった。 自分の外部の自然的条件の観察と対応が必要だと最近、気が付いた。 端的に言って、東海道を京都と往復するし、東京にも出社するので、南海トラフ地震を意識している。 単なる防災意識を超えたものを考えている。 具体的に、何をどうやるのか、まだ、試行錯誤だが、起きたときの備えと、予知に近い何かをイメージしている。

藤田武の歌(6)

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  きららなる魔ももつゆえに閉ざさるる睡りのゆめの野に母呼べり ■夢は閉ざされている。 言われてみればそうなのだが、言われてはっとする。 それは、夢が「きららなる魔」を持つからだという。 夢が開かれてゐたら、現実世界の秩序は成立しない。 だが、他方で、夢世界と現実世界は、交通している。 空想や想像、構想の世界は、無意識の夢の世界へと通じているし、夢の世界は、かなりの程度まで、現実世界の出来事を反映している。 夢の領域と現実の領域は、互いに、侵食しあって、それぞれの領域を変化させている面がある。 たとえば、この歌の「 母呼べり」が、 「妻呼べり」だったらどうか。このとき、作者は子どもから、いきなり大人になってしまう。 それは、過去の時間から現在の時間になってしまうことである。藤田は、「母」を呼ぶことで、歌の世界を夢の時間に閉じ込めたとも言える。 それは、現実が神話になっていくプロセスに極めて近い。

往還日誌(291)

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  ■4月18日、金曜日、曇り。 きょうは、六本木の仕事が休みとなったので、別件の用事を行う。 夕方、丸善へ。詩集の売れ行きを確認。変化なし。 このとき、文庫で、『小右記』を見つけて、しばらく、ぱらぱら立ち読み。 藤原実資( 957-1046 )の日記だが、ドラマの「光る君へ」で、生一本の実資に関心を持った。 この人物の見立ては、「貴族」という被規定性はあるものの、党派性や確証バイアスが比較的少なく、当時の貴族の政治や文化に関する第一級の資料だろう。 買おうかどうしようか迷ったが、すぐに、京都へ戻るので、京都で購入することとした。 実資は90歳まで生きた。 これだけでも、医療技術の発達していない10世紀、11世紀には凄い事である。 『枕草子』の清少納言も、『源氏物語』の紫式部も、同時代人になる。 歌人の光森裕樹さんより、京都の短歌専門書店「泥書房」を教えていただく。 京都の愉しみが一つ増えた。

一日一句(5676)

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  夜櫻をおもかげとして株ひとつ

往還日誌(290)

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  ■4月17日、木曜日、晴れ間ある曇り。 きのう、Kさんのところへ、メガネ2つの調整と老眼鏡の支払いに。 背筋も伸びて、顔色も良く、かなりお元気そうだった。 免疫機能が強いので、今は、抗癌剤による治療はしていないという。 帰りに、珈琲館でホットケーキ・モーニングを食した。 朝食前なので一枚だけにしたが、久しぶりで美味だった。 珈琲館は、当然、珈琲がウリだが、昨年の秋から、胃腸への負担が大きくなり、きっぱり珈琲は止めてしまった。 代わりに、ダージリンを頼んだが、ティープレスで出てきて、量も質もとても良いものだった。 京都との往還生活を始めるまで、毎年、観に行っていた近所にある櫻の古木が伐られていた。 この櫻は、特に夜ライトアップされて妖艶な姿を楽しませてもらっていた。 伐られて2、3年は経つような切り株の状態だった。 かなりの老木だったから、道行くひとの安全性などを考慮してのことかもしれない。 深夜ひとりで満開の櫻古木を見上げていると、中空に鼓の音が聞こえたような気がした。

一日一句(5675)

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  散るたびにおもかげとなる櫻かな

藤田武の歌(5)

  空よりの蛍よわよわしきひかりなげ悲惨を知らぬ朝に死せり    ■ 朝(あした)。 蛍と人間の違いとして、自他の悲惨を知って死ぬか、知らずに死ぬかと藤田は問いかける。 人間であっても、悲惨でありながら、自らは自らが悲惨であることを知らないことも多い。 自らの悲惨は知らなくとも、他者の悲惨は知っていることもある。 悲惨であるとわかっていても、そこに立ち止まることはできない。 日々の課題群との格闘がそれを許さない。 パスカルは、「神を知らぬ人間の悲惨」について語ったが、「悲惨」は、そうした「神学的なもの」ではなく、「社会的なもの」だろう。 労働を媒介に自然と物質代謝する人間の組織する社会関係が悲惨を生み出し、社会がそれを悲惨だと認識する。 多くの悲惨が人間にはあるが、その最たるものが戦争であり、1929年生まれの藤田の悲惨もそれが響いていると思う。