■7月27日、日曜日。
このところ、異様な暑さが続いている。きのうは、午前中、エアコンを入れないでいたら、眩暈がしてきた。エアコンを入れたが、午後になると、今度は、ひどい頭痛に襲われた。
きのうは、午後から、新しいプリンターを設定。途中、ベランダの植木の水遣りもしたが、都合、4時間近くかかった。さらに、設定後のアンケートが異様にしつこい。
「必須」項目などと、一企業の都合で一方的に決めて、大量の項目に答えさせる。それができないと、設定が完了しないので、事実上の「強制」である。選択の自由がないのは、いかがなものだろうか。
設定した後まで、すでに回答しているのに、アンケートの画面が出てくる。ちなみに、このメーカーは、エプソンである。
プリンターは、今後、需要は少なくなるだろう。すべて電子データでないと、AI使用には不便だからだ。しかし、紙に印字しないとできないこともある。
それが、詩などの推敲である。
プリンターが稼働したので、詩「水の金閣」を推敲する。画面上だけでもできないことはないが、紙に打ち出した方が、推敲のアイディアが自由に湧く。詩集としての最終形態が、紙に印字した本になるからだろう。
電子出版が流行ったこともあるが――私も、その最初期に第2詩集『青のことば』(2005年)をCD-ROMで制作したが、読み取りに、何らかの電子機器が必要になり、却って不便になる。スマホで読めば、活字も小さく、眼への負担も大きいので、興味を失ってしまった。
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今朝は、朝起きると、すぐに、詩「水の金閣」を推敲して、完成させる。
その後、ヘーゲルの『精神現象学』を原典で読む会。
「承認論」という大変アクチュアルなところへ来ている。
トランスジェンダーの判断基準は、「自認」しかないが、これによって、女子更衣室へいかつい男性が入り込んで女性を怖がらせたり、女子競技に、筋肉と骨格に優勢な男性が、女性と自認して参加して優勝するなど、おかしな問題が起きている。
たとえば、2015年に、ワシントン州のYMCAで、「自認に基づく性別」で更衣室を使用する権利を保障する州法に従い、あるトランス女性(身体的には男性)が女子更衣室を使用したことが話題になった。複数の親が10代の少女たちと同じ空間に成人男性の身体を持つ人物がいることに不安を訴えた。YMCA側は当初は使用を禁止したが、州法との整合性を問われて方針を変更し、物議を醸した。
2021年には、ロサンゼルスのスパ「Wi Spa」で、女性客が「男性器を持つ人物が女子エリアにいた」と抗議した件がある。本人はトランス女性であったとされるが、実際には過去に性犯罪歴のある人物だったという報道もあり、事実関係や政治的背景をめぐって激しい議論が起きた(後に起訴されたが、性的目的での侵入であった疑いが報道された)。この事件は反トランス・トランス権利擁護の両陣営が衝突するデモに発展している。
元男子スイマーであったリア・トーマスは、性自認をトランス女性とした後、女子競技に出場し、2022年に全米大学体育協会(NCAA)女子500ヤード自由形で優勝。男子時代には全国レベルの成績ではなかったが、女子として出場してから急激に上位成績を出したことから、フェアネス(競技の公正性)に関して議論が沸騰した。
ローレル・ハバード(ニュージーランド)は、重量挙げ選手で、男性として活動していたが、トランス女性として東京オリンピック(2021年)に女子カテゴリーで出場。オリンピック史上初のトランスジェンダー女子選手として注目されたが、生物学的性別との優位性について世界中で議論が巻き起こった。
ハナ・マウンスィは、オーストラリアの元男子ハンドボール代表選手で、後にトランス女性として女子チームに参加を希望。身長188cm、体重100kg超であることから、女子選手との身体的な差について大きな議論が起きた。最終的に女子リーグ参加が拒否されるケースもあった。
日本では、文部科学省通知「性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について」(平成27年(2015年)4月30日)が出ている。これは、性自認に基づいた更衣室使用やトイレ使用などを尊重すべき、というもの。
日本の共産党や社民党も、基本的には、この方針と同じである。
トランスジェンダーの問題は、「自認」の難しさや問題を示している。
ヘーゲルの「承認論」は、「他者との相互承認」を前提としており、自認で完結するトランスジェンダー論の欠点を補強する議論を含む。
これは、トランプ政権や参政党のような、「人間には男と女しか存在しない」という、ある意味、客観的だが、生物学主義的で、暴力的とも言える、権力側の強制とは異なる地平での議論が可能になる。
この点が、文科省にも共産党にも社民党にも欠落している点だと思う。
他者から「トランスジェンダーとして承認」を受けるには、そこに、日常的な相互作用や共通の経験が必要となる。
承認を行う他者には、日常時間をもっとも共有する他者が第一義的だが、親兄弟、専門家などの「集団」が介在することも考えられるだろう。
承認には時間を要するだろうし、その承認結果も、自認の変化可能性を含意していないと、たちまち、物象化して当事者を逆に抑圧する。
「トランスジェンダー」という安易な括りは、個別ケースの社会的承認という、社会による繊細な介入を阻害することもありえる。
逆に、ヘーゲルの承認論には、「キリスト教徒」や「白人」といった承認条件が付随していた。
承認者として介入する社会集団においては、社会や時代によっては、これと、同じことが起きないとは言えないだろう。
現に、トランプ政権や参政党の「人間には男と女しかいない」という言説も、トランスジェンダーの承認ではないものの、ある種の人間の承認とは言えるのである。
いずれにしても、ヘーゲルの「承認論」は、たいへん、アクチュアルな理論装置であることを実感した。
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午後、少し、昼寝。その後、買い物に行き、サイゼリアで、ケインズの『確率論』を写経する。
ケインズの『確率論』は、京都の中央図書館で借りたものだが、英文の原典『A Treatise of Probability』が、先日、さいたまへ届いたので、両方を見比べながら、検討している。予想通り、英文の方がはるかに明晰に書かれている。
この本は、私は極めて重要でアクチュアルな問題を扱っていると確信している。
夜は家族に夕食を作った。